#328 ある老舗うどんメーカーの終焉・・・3度のうどんブーム

2012年4月、ある老舗の讃岐うどんメーカーK社が髙松地裁に民事再生法の適用を申請し、事実上破綻しました。K社は1949年に創業、香川県民であれば知らない人はまずいない、県内を代表するうどん店でした。

うどんブームにも乗って、ピーク時には県内外で10店舗以上を経営。高い知名度を生かし土産用のうどんの販売も手がけ、最盛期には年間25億円を売上げました。しかし、長引く景気低迷で宴会需要が減少。観光客らに人気を集める有名うどん店や、相次いで登場したセルフうどん店チェーンとの競争激化で苦戦を強いられたことが破綻の原因、との報道内容でした。

戦後に起きた「讃岐うどんブーム」は大きく分けると①1970年の大阪万博②1988年の瀬戸大橋架橋博③2000年頃に起こった製麺所巡りといった3つの大きな山があります。これはさぬきでのうどん生産量の推移をご覧になるとご理解いただけると思います。残念ながら1980年以前のデータは手元にありませんが、第二次ブーム時(1989年頃~)には生産量が大きく伸びているのが判るし、特に2003年の突出した生産量は、未だに不可解でその理由がよくわかりません(だからブーム?なんでしょうか?)。当時は弊社にも異業種からの問い合わせが相次ぎ、その熱狂ぶりを肌で感じました。

ただ同じうどんブームといってもその時代背景はかなり異なります。①は戦後の高度成長時代、②はバブル絶頂期であるのに対し③はバブル終焉後のブームです。そしてその時代背景が大きく影響しているのか、それぞれのうどんブームの内容も異なります。例えば①、②はフルサービスのうどん専門店うどんが主役で、どちらかと言えば標準的もしくは高級なうどんが主流であったのに対し、③では1杯90円、100円といったうどんを食べ歩く超エコ(ノミー)なうどんブームでした。

報道記事ではK社はセルフうどんに対応できなかったとありますが、実際はバブル後の不遇も重なり、その当時経営者は既に交代していたようです。何れにしてもさぬきうどんの一時代を築き上げた代表的な会社がこういった形で終焉を迎えることは誠に残念です。参考までにK社を取り上げた当時の記事(1975.4.11)から一部再掲いたします。

【ビルを建てた人】
(前略)三十年代になると、観光客がふえだした。高松駅構内の立ち食い店ができたのも、この時期の後半だった。駅売りにも抜け目なく納品した。職域食堂に大量納入してきた経験が役立った。

中学出などを十七、八人、次々と採用した。そんなに抱え込んだら、いまに苦しくなる、と忠告してくれる同業者もいた。が、ポリエチレンの新包装材で、日もちのする観光みやげ用をつくれるようになったこともあって、販路は拡がる一方だった。高度成長、大量消費の時代が来ていた。

五年前からセルフサービスを始めた。広島などに支店も出した。去年五月には髙松の飲食店街に八階建てのビルを新築した。うどんでビルが建った、と市民は半ばあきれた。

一階はカウンター席、二階はテーブル席と畳席、三階は座敷、四階以上は調理場、更衣室、社員食堂、社長宅・・・。店内のデザインは小説などを書く友人にまかせた。特別に礼をしない代わりに、どんなにしても文句をいわない条件だった。メニューを肉太に書きなぐった紙切れが、べたべたと張りめぐらされた。ビルの店というとりすました印象が薄らいだ。

三百円のかまあげを、一式二万二千円の漆器で出す。特上てんぷらうどんは、エビを吟味して千円。高級店を自任している。大量消費を当て込むだけですむ時代ではなくなったのだ、と説く。

店舗六つと工場を合わせて従業員九十人。うち十年選手が十余人。みな一人前の職人に育って、持ち場ごとの責任者だ。独立の店を開くため、入門して修行中の弟子が現在十三人。片親だったため、大企業の採用試験で落とされたという大学出、自由な仕事をしたくなった外国航路船員、途中下車した髙松でうどんを食べ、商売はこれだと決めて、その足で入門した露天商夫婦、自衛隊で職場結婚した夫婦、代議士秘書、百貨店係長・・・。すでに卒業生が約四十人いる。その店は埼玉、富山、岡山、福岡、熊本などにある。

下請けの二工場も含めて月産六十万玉、年間売り上げ高五億円。家族労働に頼る零細経営が圧倒的な業界では例外的な規模である。主人公、Iさんは、うどんブームの一面を象徴する存在、ともいえる。