#364 世界初の近代的製粉工場・ウォッシュバーンCミル・・・②
ウォッシュバーンCミルが建設されるに至った経緯はなかなか興味深いので、ついでに少し説明したいと思います。彼のフルネームはカドワラダー・コールデン・ウォッシュバーン(Cadwallader Colden Washburn)、略してC.C.ウォッシュバーン。メイン州リバーモア(Livermore, Maine)で7人兄弟の一人として生まれました。兄弟優秀な政治家が多い中、彼も負けず劣らずアメリカ合衆国下院議員及びウィスコンシン州知事を勤めました。また現在もアメリカ有数の製粉会社であるジェネラル・ミルズ(General Mills)を興したことでも有名です。
ウォッシュバーンAミルで、凄まじい粉塵爆発がおき、木っ端微塵になったのは、1878年5月2日の夕方でした。一報を聞きつけ、急遽現場に駆けつけたウォッシュバーンは、供給不足を解消すべく、Bミルのすぐ隣地に新工場建設を、その場で即断します。そして自ら歩測を始めた彼は、Bミルの基礎よりも更に余計にいくらか歩いたところで立ち止まり、「この地点まで建設することにしよう」と担当者に告げます。その結果できあがった建物の全長は145フィートと、元のBミルよりもかなり大きいものとなりました。
できあがった新しいミルは30基の石臼(旧Bミルは12基)に加え22基のロール機(6基はブレーキロール、16基はスムースロール)、そして44台のシーブ・ピュリファイアーと75台のリール式篩機を備えていました。この工場は操業開始後、1年以上経過した1880年の1月になると、ようやくウォッシュバーンCミルと呼ばれるようになります。その後、増設されたCミルは1882年には、一日当り2,000バレルの小麦を挽砕するようになります。
このCミルにおけるとりわけ革新的な改良点は、石臼から排出される粉塵対策でした。1878年の粉塵爆発に懲りたウォッシュバーンは、全ての石臼に粉塵排出装置を取り付けましたが、これについては次のようなエピソードがあります。石臼から排出される粉塵の処理については、フィラデルフィアにあるブレーマー・バーンズ(Brehmer-Behrns)社製の排出装置が良いとの評判を聞きつけたウォッシュバーンは、早速その装置をミネソタまで持ってきて実演するよう電信を送ります。
そのとき対応したのが、たまたま製粉担当の若き技術者ウイリアム・ドラバール(William de la Barre)でした。彼がミネソタに到着すると、ウォッシュバーンは彼に「購入を決める前に、ちゃんと機能するかどうか確認したいので、実際に何台か、試しに動かしてみてくれないか」と言います。しかし会社の方針は現金払いで、デモ機の使用は認めていません。そこで悩んだドラバールは、その代金を個人的に立て替えて、デモを行います。もちろんデモはうまくいき、最終的に支払いも問題なく行われましたが、その事実を後で知ったウォッシュバーンは、ドラバールにも改めて手数料を支払い、彼を技術顧問として会社に迎えることになりました。
それはともかく完成したCミルの建屋は当初の予定よりも大きかったため、建物南側に18フィート程の空間が残りました。そこで技術責任者のグレイ(W.D.Gray)は、そのぽっかりと空いた空間を、暫くじっと眺めた後に、次のように考えます:「ひょっとしたらこの空間は、石臼を使わないロール製粉機だけの新しい製粉工程を試すには、絶好の機会かも知れない。それに先進的なウォッシュバーンは、この考えにきっと共感してくれるに違いない」っと。そして早速ウォッシュバーンにそのプランを提案したところ、案の定快諾してくれたので、その空間に日産100バレルの小規模なテスト・ミル(試験工場)を作ることになりました。
こうやってCミルの一角にできたウォッシュバーンのテスト・ミルは、完全に自動化された工程であり、石臼は一切使用せず、また段階式製粉方式を採用した画期的なラインでした。つまり近代的製粉工場であるための3つの条件を最初に満たした近代的なテスト・ミルとなったわけです。下図はそのテスト・ミルの概略図です。