#378 「品質は最上の営業」
ときに「社是は何ですか?」と聞かれることがあります。しかし大企業でもないし、そんなに確固たる商業哲学を持っているわけでもありませんので、返答に窮することがあります。ただ事務所には「品質は最上の営業」と書かれた額縁をかけてありますので、強いていえばこれが社是にあたるのかもしれません。しかしそう言うと、逆に「本当に品質は確かなんですか?」、「それでは営業はどちらでもいいんですか?」、「法令遵守はどうなんですか?」みたいな声が聞こえてきそうで、こういった表現はなかなか難しい、ということは重々承知しています。
弊社は創業者・木下虎七が復員後の昭和21年に、小麦の賃加工として始めました。食糧難の時代でしたから、食に関連したものが食いっぱぐれが無いだろうということで、この職業を選択したと聞いています。そして「とにかく製造業であるからには、良い製品をつくる努力をすることが根本」ということで、このような表現になったと推測します。よってできる、できないは別にして、品質を追求することが第一義で、別にそれ以外のものを蔑ろにするつもりはなかったと考えます。
ところで弊社の社是を書いたのは、中国のある書家ですが、これは虎七が中国を旅行したときに、とある場所で、「『品質は最上の営業』と書いてください」とお願いしたようです。付属のパンフレットをみると、その書家は両手に別々の筆を持ち、違う文面を同時に書くことができる、とあります。両手で違う文章を、同時に書けるというのは、確かにすごい才能だとは思いますが、それと達筆であることとはあまり関連性がないような気もします。でも素人ながら、素直に味わい深い書体であるとも感じます。
虎七は中国を何度か旅行しましたが、その理由は2つありました。一つは青春時代を戦時中の満州で過ごしたことで、中国に対する思いが強かったこと。そしてもう一つは中国で戦死した、兄・柳平の手がかりを見つけることでした。行くたびに、僅かな情報を手がかりに、四方八方手は尽くしたようですが、結局消息はわからなかったようです。柳平氏には男ばかり5人の子供がいましたが、奥さんが女手一つで育て上げ、未だにご健在ということなので、本当にすごいと思います。
虎七の兄弟構成は七福神(男性6名+女性1名)でした。正確にはもう一人姉がいましたが、幼少時に亡くなったので実質的には七福神です。また名前に「七」の字が付いているので、てっきり7番目の末っ子かと思っていましたが、よく見ると「久米七」とか「友七」といった名前の兄弟もいたので、単に「七」をつけるのが当時の流行りであったようです。正確には虎七は6番目で、友七が末っ子でした。
虎七は、良くも悪くも典型的な明治男でした。とにかく頑固でワンマンで、一度自分が思い込むと周りがどれだけ反対しようが、お構いなしでした。しかし反面人情味溢れる性格で、人の世話もまた周りが呆れるくらいしたようです。夜になると、いつも判で押したように、いつまでも工場内で機械の修理、修繕などをやっていました。今となっては信じられないような生活パターンですが、当時はそれがあまり珍しくなく、どちらかと言えば普通の光景であったようです。
軍隊で鍛えられたためか、屈強な人間でしたが、体力を過信しすぎたのか、晩年は腎臓疾患を患いました。しかし、それでも他人の手を借りる事もなく、80歳まで元気に生活しました。子どもたちには色々無理強いをしましたが、最後は子どもたちの手を煩わせることなく、逝ってしまい、そういう意味では非常に子供孝行でした。