新着情報#407 討ち入りうどん
「忠臣蔵」といえば、日本人なら知らない人はいないと言われる、おなじみの話ですが、簡単に復習しておきます。時は今から300年以上前の、元禄14年(1701年)3月14日、江戸城「松の廊下」にて、刃傷事件がおこります。播州赤穂(兵庫県)五万三千石のお殿様浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、いじめの腹いせか、なんと先生役の吉良上野介(きらこうずけのすけ)を切りつけます。この刃傷沙汰により、浅野内匠頭は即刻切腹、お城は没収、そして藩は解体を申し付けられます。
その後、家老の大石内蔵助は、御家再興の努力をするも、思うように事は進まず、虚しく時間だけが過ぎていきます。一方、吉良上野介はお咎めなし。で、この喧嘩両成敗に反する不満、そして世間や家臣からの期待がどんどん高まり、最後にはとうとう殿様のかたきを討つ決心を固めます。そして刃傷事件から1年半年後の元禄15年12月14日深夜、大石内蔵助率いる播州赤穂浅野家の浪士四十七士が、両国松坂町の吉良屋敷に討ち入り、激闘の末、翌未明寅の刻(午前四時)、吉良上野介の首級を打ちとったというお話です。
さてここからが本題です。小麦粉に関わる私たちにとっての関心事は、赤穂浪士たちが最後の晩餐に何を食べたかということです。より正確には、「うどん」か「そば」かということです。浪士たちが討ち入り前夜、腹ごしらえをした集合場所というのは、映画やテレビの場面設定では、大抵そば屋の二階のようですが、実際はよくわかってはいません。
香川県製粉製麺(協)で永年専務を勤められた佐々木謙二氏は、さぬきうどん研究会会報第25号に「赤穂義士とうどん」という興味深い文章を寄稿されています。佐々木氏は小説等の文献を調査し、その中の場面設定で、どちらが登場したかを調べたところ、うどんが7点、そしてそばが2点となりました。よってうどん説に軍配が上がり、ご本人も讃岐人ゆえそれを支持したいと仰っています。尤も真相は闇の中で、それ故、尚更想像力がかき立てられるのです。また山田竹系著「随筆さぬきうどん」にも「討ち入りうどん」という短文があり、以下そこから興味深い部分を抜き出し、ご紹介いたします。
「何ごとでこうお揃いとそばやいい」。江戸の古川柳である。一人の男が、朝っぱらからそば屋へやって来て、「今宵五十人ばかりの集りがある。手打ちをたのむ」と前払いで、五十杯のそばを注文して帰った。そば屋のおやじ、こいつは朝から縁起がいいとばかり、さっそく打ちにかかるが、一体、いまごろ何のより合いだろう。それにしても、いまの男、町人風だが、眼の光りが尋常ではなかったのが少々気にかかる。やがてかわたれ時、三々五々とそば屋に集まってきた。いわずと知れた、時は元禄十五年師走の十四日。
(中略)
この世の名残りにそばばかり注文するというのは、考えてみるとちょっとおかしい。ところが、あった、あった。岩波文庫発行の「柳多留第九篇」の中に「そば切りは二十うどんは二十七」。四十七人のうち、二十七人までがやはりうどんを食って、これがこの世の食いおさめとばかり、死を覚悟で吉良邸へ討ち入ったわけである。
当然ですが、ここでもやはりうどん説、そば説両方併記されています。そして竹系先生の文章には更に興味深い部分が登場します。これによると弊社の位置する坂出市と赤穂とは、意外なつながりがあるんだなと、思わず唸ってしまいます。ひょっとしたら、この近辺にも赤穂浪士の末裔たちがいらっしゃるのかも知れません。
赤穂近辺は、いまもむかしも麺類の産地である。義士の討入りに反対したいわゆる不忠組の家士たちは、世論の高まりにつれて、赤穂の土地に住めなくなって、小豆島や五色台の下の木沢方面(坂出市北部)へ、行商人に化けたりして逃避してきた。木沢の海岸に来て住みついた数も四十人くらいはあったという。
(中略)
彼らは、木沢から大藪(大屋冨)方面に土着して、百姓になりはてたが、時には故郷を偲んで、何かにつけよくうどんをこしらえて食べたと、これは古い記録にも、いい伝えにも残っている。