#413 「さぬきうどん物語」byさぬきうどん研究会
「さぬきうどんの伝統を継承し、発展をはかるために文化的、技術的活動を行う」という目的でスタートしたさぬきうどん研究会が、めでたく30周年を迎えたことは、(#380)にてお知らせいたしました(正確には2014年1月28日でした)。何の財政基盤もない一民間団体が、今日まで続けてこられたのは、一重に真部正敏会長を始めとする歴代世話人たちの努力の賜物です。
そしてその活動の一つとして、今から25年程前の1988年、真部会長を始めとする会員4名がそれぞれに纏わる「さぬきうどんのトピック」をリレー形式で、朝日新聞香川版に執筆しました。連載は一年間という長期間に亘り、全52篇となりました。今読み返してみると、当時のさぬきうどん事情が懐かしく思い出されるものも多く含まれます。「こういった内容のものをそのまま寝かしておくのはもったいないな」と思っていたところ、なんと「さぬきうどん物語」として、再デビュー致しました。誠に嬉しい限りです。
そこで今回はその中から、興味深いトピックを独断で4つ選んでご紹介したいと思います。連載期間は昭和63年(1988年)1月6日~平成元年(1989年)2月1日。今回のさぬきうどんブームは、1988年4月10日の瀬戸大橋開通と共に始まりましたが、その連載は丁度そういった、全国の皆さんが瀬戸大橋を渡り、こんぴらさん、屋島、栗林公園といった香川観光に来られるようになった頃のものです。皆さんもご興味のある方は是非、お買い求めください。
#3 水車・・・特に多かった中讃地方
明治25年の資料によれば、水資源の乏しい香川県下では当時304台の水車が稼働していました。当時、粉を挽くのは石臼、そして石臼を駆動させるのは水車で、水車には水が不可欠。よって製粉所というのは大きな河川に沿って立地していたのと考えるのが、妥当です。「さぬきうどん発祥の地はどこか」というのはさぬきうどんの大きな謎ですが、水車に着目すると、香川県内では綾川(あやがわ)流域が水車の立地条件に最も適していたので、「中讃地方(香川県中央部)が発祥の地である」という説は、合理性があります。
#13 店マップ・・・西高東低の傾向くっきり
現在さぬきうどん店の数といえば、800店とも900店とも言われていますが、以前は3,000店とも3,500店とも言われていました。「以前と比べるとずいぶん減ったじゃないか」と思うでしょうが、当時は麺棒と打ち台さえあれば製麺所と呼ばれた時代なので、極めて小規模、よってそれだけ多くのうどん屋さんが必要だったのです。そして現在、うどん店の分布については、「西高東低の傾向がくっきり」と言われていますが、これについては、なぜかそうなっているのか、新着情報(#324)でも、以前検討してみました。単純な理由としては、「西部地域の人口密度が高い」からだと思うのですが、興味ある方は、新着情報(#324)をご覧ください。
#23 農林水産大臣賞
さぬきでは毎年、うどん職人の腕を競い合う「さぬきうどん技能グランプリ」が開催されています。これは昭和54年に始まった「さぬきうどん品評会」が前身で、平成14年から現在の名称に変わりました(#176)。そしてそのグランプリの最高位は「農林水産大臣賞」ですが、そのエピソードが紹介されています。実は当時、元の香川県農林部長が、農水省に陳情にいったところ、「讃岐うどんはローカルの特産品だから、大臣賞は交付できない」と最初断られたそうです。しかし「信州そばには大臣賞があるじゃないか」と訴えたところ、許可されたそうです。
#37過酸化水素騒動記・・・厚生省発表に返品の山
昭和55年1月11日、厚生省が「過酸化水素は発がん性の疑いあり」と発表。当時は、過酸化水素が、安価なうどんの殺菌処理剤として使用されていたので、この報道をきっかけに多くの製麺業者が廃業に追い込まれました。もうあれから30年以上が過ぎ、今のうどん屋さんでは覚えている方も少なくなったと思います。