#466 東日本大震災から4年経って
阪神・淡路大震災が起こったとき、自分の目の黒いうちにはこれ以上の地震は起きないだろう、と理由もなく思いました。またスマトラ島沖地震での津波による惨状をテレビで見ながら、こんな津波は日本では起きないだろうとも思いました。しかし東日本大震災が起こってみて、「世の中はいつ何が起きても不思議ではない」と感じるようになりました。さてイラスト担当者による新着情報をお届けします。
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3月11日で東日本大震災から4年が経ちました。ちょうど4年前のその日、私は香川に帰省していたので、地震が起きた直後、事態の大きさを全く把握することができませんでした。しかし帰宅しテレビをつけると、全局で地震、そしてそれが引き起こした津波の様子が映し出されていました。住宅街を津波が呑みこんでいき、自動車や船もが流されていく様子を見て、これが同じ日本で起こっていることなのかと恐怖に苛まれた記憶は、今でも鮮明に蘇ります。
昨年の3月、私は「きっかけバス47」という活動を通して被災地に行きました。このプロジェクトは、大学生が主体となり各都道府県からバスを出し被災地へ支援活動をしに行くというものです。2泊4日で宮城の気仙沼や岩手の南三陸町を訪れました。
羽田空港から夜行バスでまずは岩手に向かいます。着くとそこは震災から3年が経つというのにまだまだ荒地が目立ちます。鉄骨がむき出しになった防災庁舎では、震災当時、最後まで津波が来るのを知らせるアナウンスがされていたといいます。町民を守ろうとした職員の方々の姿を想像するといたたまれなくなります。
その後、私たちは土砂の山を前に、遺品捜索の手伝いをしました。シャベル一杯分の土砂を篩にかけ、最後に残った石や木くずを水で濯ぎ仕分けします。ただの布きれであっても、もしかしたら洋服の一片かもしれません。過去には実際にその中から沢山の遺品が出てきて、遺族のもとに返されたそうです。そのような僅かなそして淡い希望をもって、一回一回手作業で捜索を行うのです。
また復興屋台村とよばれる仮設の飲食街では、お店の方々が地元の海の幸のPRをされていました。どの店主さんも皆さん、明るく、威勢が良く、そして面白い方ばかりでしたが、震災の話になった途端、ぽろっと涙が落ちるのを見て、その気丈に生きようという思いがひしひしと伝わってきました。悲しい記憶を呼び起こすのは本当に辛いですが、この体験を私たちに伝え、風化させない為に、と話してくださいました。
宮城の気仙沼では仮設住宅へ向かい、私たちの県(香川)ならではの支援の形として、讃岐うどんを振舞いました。みなさん「美味しいね、」と言いながら出る話題は、ここでは土地の名産品についてです。「気仙沼のわかめはシャキシャキしていておいしいよ」と言いながら、お婆さんが一旦家から生わかめを取って戻ってきました。文化によって支援することの可能性を感じた一幕でもありました。
4年経った今では、当時に比べて風評被害はかなり減ったと思います。それでも実際東北産の野菜を選ぶことに戸惑いがあったり、旅行することを躊躇ったりする方もまだいらっしゃるようです。きっと私も、きっかけバスプロジェクトに参加することなく、被災地に行っていなかったらそう感じていたかも知れません。しかし現地で実際に人に会って、話を聞いて、文化に触れることを通して大きく見方が変わりました。
復興支援という点に限れば、恥ずかしながら私たちはほとんど何も貢献できていません。でも実際に現地にいくことで、被災された方々の、現在の生活、考え、思い、不安、希望に接することができました。今回の活動が「きっかけ」となり、考え方が少しずつ変わってきたようにも感じます。これからもその思いを忘れずに、歩いていこうと思います。