#473 18世紀フランスの製粉風景

f473_2昔の小麦製粉というのは、石臼で挽いた小麦をそのまま篩(ふるい)にかけ、篩の目を通過したもの(スルーといいます)が、小麦粉となっていました。また小麦は一度には挽ききれないため、篩の目を通過しなかったもの(オーバーといいます)は、再度石臼で挽き、篩にかけるといった操作を繰り返していました。この方法は直感的で分かり易いのですが、小麦の表皮(小麦ふすま)も一緒に挽き込んでしまうため、それでパンを焼くとごわごわとした食感になったり、食味が劣化したりするといった欠点がありました。

よって近代製粉への道のりというのは、小麦ふすま片の混入を如何に防ぐかという、正にその1点に特化されたといっても過言ではありません。そしてその試みは16世紀のフランスにおいて始まりました。その難問に対する解答は、まず小麦粒を大きく割り、表皮部分と胚乳部分とに分け、そのそれぞれを更にもう一段階小さくするという、現代の製粉方法である「段階式製粉方式」でした。フランスでは大試行錯誤の結果、18世紀には現代の段階式製粉方法の原型が確立されたと言われています。

ただ近代製粉の先進国フランスですが、製粉作業自体は相変わらず肉体労働であったことに変わりがありません。製粉工程の自動化を最初に実現したのは、アメリカの技術者、オリバー・エバンス(Oliver Evans)で、1785年のことです。エバンスの製粉工場では、「段階式製粉方式」を採用してはいませんでしたが、スクリューコンベアー、バケット・エレベーター、そしてダスト・シュートといった装置類を独自に考案し、製粉工程の自動化を実現しました。注目すべきは、この全自動化工場は、製粉産業だけでなくすべての産業を通して最初に無人化された工場だということです。

さて下のイラストをみれば18世紀の製粉作業が如何に過酷な肉体労働であったかがよくわかります。台座に載った石臼上部に小麦を投入するホッパーがありますが、職人は小麦を背負いながらハシゴを登り、そこまで担ぎあげます。ホッパーと右壁の梁とは紐で繋がれていますが、紐の一端はホッパー内の板と、またもう一端は梁に取り付けられたベルと繋がっていて、ホッパー内の小麦が減ると、板が下がり、それにより紐が引っ張られてベルが鳴る仕組みになっています。ベルの音によって、職人は小麦をホッパーに補充するタイミングを知るわけです。

台座下は布で囲われた大きな部屋になっていて、この中に篩い機が2台設置されています。石臼から落ちてきたひき割りは、最初の篩い機にかかり、そのスルーが小麦粉となり、そのオーバーは次の篩い機にかかります。全体が布で覆われている理由は、粉塵が外に漏れないためで、この布で囲われた大きな箱全体がひとつの集塵室となっています。そして仕上がった小麦粉は、職人がショベルで袋に詰めて出荷します。

エバンスによる製粉工程の自動化といったアメリカ由来の製粉技術が、フランスに伝播するのは、イギリスよりもずっと後のことです。18世紀におけるフランスの製粉風景は100年間ほとんど変わることがなかったと言われていますが、その製粉産業及び技術の停滞は、フランス革命や皇位継承を巡る抗争などが原因であると言われています。戦争が終結した後、フランス産業は再び活況を呈し始め、製粉産業もアメリカやイギリスの先端技術を積極的に導入し始めます。そして当時の最先端技術を吸収した後は、フランスは再度、輸送技術、小麦の精選技術、そして小麦粉の仕上げ工程などの分野において独自の発展を遂げ、製粉産業界に再度貢献を始めるようになります。

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