#525 本多製麺謹製「ロザリオ南蛮パスタ」
そうめんサミットでは、お隣ブースの本多製麺さんご持参の寸胴鍋のお陰で、事なきを得ました。そのお礼にといっては何ですが「さぬきの夢・干しうどん」を差し上げたところ、逆に本多製麺謹製「南蛮パスタ」をいただき大いに恐縮しました。しかし折角の機会ですので、喜んで試食させていただきました。先ず、「なんで南蛮パスタという商品名なのか」という素朴な疑問が湧きましたが、商品袋裏面のうんちくを読み合点がいきました。
一部を引用すると:「天草四郎、島原の乱として有名な南島原。16世紀、キリスト教文化が大いに栄え、南蛮文化の花が開花。ローマ法王への天正遣欧少年使節が、南島原原口之津から旅立ち、食文化としての麺の交流もありました。(以下略)」。つまり16世紀には既にイタリアとの交流があり、パスタ文化が長崎に伝来していたと考えられるのです。うどんの技術は弘法大師・空海が中国から持ち帰ったという口伝が讃岐にはありますが、南蛮パスタの歴史も結構ディープです。折角の機会ですので、少し歴史を勉強してみました。
天正遣欧少年使節(1582~1590)は、キリシタン大名とイエズス会の命により、ヨーロッパに派遣された伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4人の少年使節のことです。スペイン・ポルトガル国王やローマ教皇に謁見するなど、当時ヨーロッパに大きな話題を振りまきました。そして彼らこそ初めてヨーロッパに渡った日本人であり、言い換えるとヨーロッパ人たちが初めて見た日本人も彼ら4人だったわけです。(詳細は例えばこちら)。
更に驚くべきは、初めてヨーロッパに渡った日本人が、13~14歳の少年たちだったという事実です。彼らは1582年2月20日に長崎を出港し、実に3年かけて1585年3月22日ローマ到着、翌3月23日、ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。そして1590年7月21日、8年半ぶりに帰国します。今なら中学生4人組がヨーロッパに向かい、帰国時にはすっかり成人だったということです。帰国後、彼らはキリスト教布教に尽力するも、折しもキリスト教に対するアゲインストの風が強くなり始め、それぞれ厳しい人生を歩みます。そして彼らが亡くなり暫くすると、1637年に島原の乱が起こり、キリシタンは一掃されることになります。
本多製麺さんの所在地は南島原市西有家町(下地図①)。天正遣欧少年使節が出港した南島原口之津(下地図②)とは目と鼻の先なので、「南蛮パスタ」なる商品名にも納得です。それにしても長崎ほぼ最南端から、はるばるたつの市まで来られ、そうめんサミットにご参加いただき、主催者に代わり厚く御礼申し上げます。すっかり前置きが長くなってしまいましたが、以下簡単に「南蛮パスタ」の試食レポートです。
原料はデュラム小麦100%使用なので、色はパスタそのものです。デュラム小麦は別名「マカロニ小麦」とも呼ばれ、普通の小麦とは異なる特有の性質のタンパク質を持っている、マカロニやスパゲティへの加工適性が特に強い小麦です。「南蛮パスタ」は手延べそうめんで名高い「島原手延べそうめん」の製造手法を取り入れ、手作業でゆっくりと時間をかけ干し上げて製造します。平めんなので、ゆで時間は僅か3分、あっという間にゆであがります。
「甘みとコク」のキャッチフレーズ通り、その淡い甘みを堪能しました。常々思うのですが、麺にとっての食感は大事ですが、それと同等もしくはそれ以上に「麺の食味」は重要だと考えます。食感だけの麺では、その内に飽きてしまいますが、食味の良い麺は毎日食べても飽きることはありません。「天正遣欧少年使節のうんちく」を眺めながら、当時の長崎に思いを馳せていると、知らない間にパスタがなく無くなっていました。