#540 さぬきうどんのミッシングリンク②・・・「中車の信憑性」
300年ほど前に制作された屏風「金毘羅祭礼図」(1688~1703)には、3軒のうどん店が描かれているので、さぬきうどんのルーツは、少なくとも300年以上前であることは明白です。しかしそれ以上どこまで遡ることができるのかは不明です。空海伝説、讃岐最古の水車と言われる「旧滝宮村の中車」も、推測の域をでません。よって空海伝説以降の約800年間は、さぬきうどんのルーツにとってはミッシングリンクというか、正確にいうとグレーゾーンになっています。以下全くの独断ではありますが、このグレーゾーンについて考察してみました。
【①中車の信憑性】
「日本の水車と文化(前田清志著)」(右下)にはそのタイトルの如く、水車についての情報が満載です。以下その内容を基に、気のなった点をまとめてみました。
水車は小アジア地方で発明され、東西2つのルートに分かれて伝播した説が一般的です。東ルートでは朝鮮半島の高麗を経て、推古天皇の18年(610年)、「碾磑(てんがい)」という名で、日本に初めて伝来しました(「日本書紀」より)。この碾磑は、後の研究により画像(下左)のような「水碾(すいてん)」、つまり立軸の水車を利用した挽き臼であると考えられています。ただその後、9世紀初めまでは、断片的な記録しか見当たらないことから、当時の社会は水車動力を必要とするほどには発達しておらず、よって普及するには至らなかったようです。
その後は、徐々に文献などに登場するようになり、15世紀までには、揚水水車や横軸の米搗き水車も一通り知られていたようです。そして年代が経つに従い、それぞれの土地の産業や精米・製粉の動力や揚水用として広く利用されるようになります。尚、現在知られているわが国最古の精米、製粉の記録としては、円爾弁円(えんじべんえん)が仁治2年(1241年)、中国から持ち帰った「大宋諸山図」に収められた「明州碧山寺の水磨」と言われています(下右画像参照)。
小規模な営業用の水車製粉は、江戸時代から始まりました。元禄10年(1697)には、江戸の粉屋久兵衛が上仙川村の品川用水に無断で水車製粉所を作ったために、幕府役人に取り壊されたという記録もあります。ただ「明治工業史(昭和5年)」には「小麦粉製造専業のため、水車を経営する者に至りては、至って僅少なり」との記述があるので、それより以前の江戸時代における製粉用水車は、珍しい存在であったと考えてよいと思います。日本ではうどん・そばなどの麺類を食するのが一般化しているので、粉挽きは進んでいたように考えられがちですが、近年に至るまで主食は米・麦を中心に粟、稗などの粒食であり、うどんは「ハレの日の行事食」でした。
簡単にまとめると次のようになります。日本の水車の歴史は7世紀に伝来以来およそ1380年に及んでいます。水車は江戸時代の18世紀に全国的に普及しますが、用途は油絞りや酒造りなどのような特殊用途に限られます。そして明治時代になると精米・製粉用水車を中心に、全国至る所で見かけるようになります。つまり日本における水車の最盛期は、幕末から明治・大正・昭和初期にわたるおよそ100年間ということになります。
一方、「讃岐の水車・峠の会編」(右画像)には香川県において調査された水車384基が掲載されていますが、「中車」以外の水車は全て江戸時代以降の設置となっています。もし旧滝宮村中車の設置が仁和年間(886年頃)であるならば、これだけが突出して古い存在になります。加えて「日本の水車と文化」においても、「中車」はどこにも登場しないので、ひょっとしたら「幻の水車」なのかも知れません。