#612 うどん一徹人生・高橋繁一氏

f612戦後のさぬきうどんを語るにおいて、高橋繁一(しげいち)氏を避けて通るわけには参りません。氏は明治30年(1897)10月18日、高松市に生れ、うどん一徹人生を全うし、平成4年(1992)に亡くなりました。氏はまださぬきうどん黎明期であった昭和36年6月18日、「本場さぬきうどん協同組合(当時は高松製麺協同組合)」を立ち上げ、初代理事長も務められたことでも有名です。以下簡単に、氏のうどん一徹人生を振り返ります。

繁一少年は、明治37年、満6歳で親類のうどんの玉卸し屋に奉公します。奉公先の親方は、先代が高松藩の居合いの先生でしたが、明治維新で失業しうどん屋となりました。当時の高松は、夜間に屋台を引き、うどんを売り歩く夜なきうどんが盛況でしたが、夜なき行商の中にも旧藩士がいました。このように世の中は、まだ維新のなごりが感じられる時代に、繁一少年はうどん屋さんになりました。さぬきうどんのつゆには、いりこが外せません。当時は出しがらのいりこを軒びさしに干し、乾くとそれでもう一度だしを取り、それを再度干し、生醤油をかけておかずにしたといいます。そんな時代です。

3年目からは天びん棒で配達し、12歳で一人前になり、そして25歳で独立します。親方にはいつも叱られ通しで、叱られる度に麺棒で叩かれ、たんこぶが絶えなかったといいます。10歳の頃は、体重が足りないため、挽き臼を背負いながら生地を踏んだという、冗談のようなエピソードもあります。独立してからの数年間は、一日に百貫(375kg)の小麦粉を打ち、また大正天皇の即位のときは130貫も打ったという伝説的な記録も残っています。130貫といえば業務用25kgの小麦粉20袋分に相当し、これを全てうどんに打つというのはにわかに信じられません。

氏曰く、手打ちの原則は、「生地を四角に延ばすこと。丸くなるのは落第」。また「うどんの切り口は、光っとらんといかん。それにゆでたら、もう一回り光ってくるようなうどんが本物」が持論です。ちゃんと熟成の効いたうどんは、艶が良いということです。

f612_2氏は塩加減について次のように言います。「昔から、塩を茶碗一杯に、水を何杯くむと言うた。夏は、六、七杯で、冬は倍の十二杯という具合いや。しかし要は永年のカンで決めるんやな。冬でも表に氷が張るようになったら十五杯でもいける」。蛇足ながら土三寒六常五杯という口伝は、まだ塩の純度が70%程度と低かった時代の話です。

更に生地の熟成については、「宵ごねはいかん。あれは麸が出過ぎてしまう。朝になるとぼけてしまうんや」と言います。つまり麸が出かかったところで、延ばして切って茹であげるのがポイントだといいます。季節にもよりますが、基本的には生地の寝かしは1時間程度で十分で、真冬でも宵ごねはいかんというのが持論です。

熟成時間については、少し捕捉します。「麸がでる」というのは、生地を寝かせることによってグルテンが強化され、テカテカと艶がでてくることを言います。そして「麸が出過ぎる」とは、熟成し過ぎることで、逆に生地がだれてしまうことです。内麦はたんぱく質、つまりグルテンが少ないため、熟成時間が長くなると、どうしても生地がだれてしまいます。よって内麦しかなかった当時は、何がなんでも朝練りにこだわったのです。

一方、現在うどん用の業界標準となった豪州産ASWには十分なグルテンが含まれているため、朝練りでも宵練りでも、しっかりとした生地の状態を保てるので、問題はありません。しかしASWを使っていても、朝の1時に起き、朝練りにこだわるうどん屋さんも、まだ讃岐には残っています。高校野球が好きだった高橋翁は、晩年は、首から財布を吊り、自転車で高松中央球場(現在の中央公園)によく通っていたといいます。