#655 小麦の起源②
元々の小麦の祖先であるアインコーンは、その後の交配種に比べ収量が少なく、色は黒く幾分苦かったので、洗ってアクをとる必要がありました。しかしその反面、比較的痩せた土壌でも、小高い場所でも、また木々のない乾燥した場所でも育つことができます。アインコーンはチグリス・ユーフラテス川に挟まれた比較的標高の高い地域、シリア北部のハラフ文化(Tell Halaf)の栄えたところ、アナトリア中央部、そして多分その後遅れて紀元前3,000年頃にヘレスポントのトロイ(Troy)などで耕作されていました。
エンマー小麦はアインコーン小麦より品質において明らかに優れていました。エンマー小麦の方がより肥沃な土壌が必要でしたが、どちらも利用できる環境では、決まってエンマー小麦が耕作されました。エンマー小麦は、シリア・パレスチナにおいて野生の状態で見られた他、アインコーン生息範囲の南限あたりにも見られ、穀物の耕作はきっとこの近辺で、この二つの小麦のいずれかで始まったに違いありません。そしてその小麦が初期の農耕時代において最も広く普及したのです。初期のエジプト時代においては、エンマー小麦は大麦と一緒に見られましたが、小麦としては唯一耕作され、メソポタミアではかけがえのない穀物でした。またヨーロッパにおいては風によって黄土が広範囲に堆積されたドナウ川流域で耕作されましたが、そういった土壌は掘りかえしやすく原始的な道具でも作業しやすかったからです。
3ゲノム小麦、つまりパン小麦の出現により、小麦の普及と製粉技術の発展にとって二つの大きな変化が起きます。第一点目。エンマー小麦やアインコーン小麦では、胚乳を被っているふすまを、更に外皮が包んでいますが、この外皮を取り除くことはかなり難しい。これはデュラム小麦やイギリス小麦(turgidum)(共に2ゲノムグループ)についてはあてはまりませんが、その代わりデュラム小麦は極端に硬いので粉砕しづらく、またイギリス小麦はよく育つが、品質は最悪です。その点、ローマ時代にヨーロッパ南部に出現したスペルト小麦を除くパン小麦はすべて裸性、つまり外皮が離れやすいのです。よって他の条件が同じなら、裸性小麦、特に裸性パン小麦は、粉砕適性や食味に優れていたので、皮性小麦や大麦に比べ強く支持されました。
第二点目は、小麦の胚乳部分の硬さの違いが、小麦を選択する上での重要な要因となります。一口に硬さといっても、火打ち石のように硬いデュラム小麦(デュラムは元々硬いという意味)からチョークのように脆い「クラブ小麦」(パン小麦グループの一つ)まで様々です。アインコーンやエンマーはパン小麦に比べると硬いが、デュラム小麦ほどではありません。またパン小麦の中にもその硬さには幅があるし、特に現代では私たちの好みに応じてほとんどどんな硬さの小麦も手に入るようになりました。
原始的な粉砕用の石器を使っていた時代から、19世紀後半にロール式製粉機が実用化されるまでの間は、より軟らかい小麦が好まれていました。その理由は軟らかい方が砕きやすく、ふるいにかけた後も胚乳部分とふすまとの皮離れが良かったからです。しかしふるいの方法が効率化されるにつれ、デュラム小麦のように硬くても裸性小麦は、幾分かは好まれるようになります。そしてローマ時代になるとデュラム小麦は、エンマー小麦よりも益々使用されるようになりますが、その理由は、エンマーは皮性小麦であるから敬遠されたのと同時に、ローマ人たちのふるいの技術が進んできたからです。
これらの事実を全て総合すると、メソポタミア南部の北東地域にあたるイランが3ゲノム小麦発祥の地ということになります。3ゲノム小麦の紛れもない祖先であるエンマー小麦は、その辺りの遺跡でいくつも発見されています。そして当時のパン小麦の実例が今なおイランだけでなく、その周辺地域でも同様に発見されています。よってこれらの事実から3ゲノム小麦はイランを中心として拡がったことがわかります。クラブ小麦は多分、紀元前4,000年頃のイランで始まったであろうし、普通小麦はイラン東部のアフガニスタンもしくは、北部のロシア・トルキスタン(トルキスタン西部)かトランスコーカシアあたりで、紀元前3,000年頃に始まったのでしょう。パン小麦はアナウ(Anau、トルクメニスタンの首都アシガバート郊外)から中国に広まったであろうし、また南ロシアから西ヨーロッパに拡がりました。そしてそれは当然のことながら、アインコーンやエンマー小麦が拡がるよりも後のことです。