#684 「町のうどん屋、長~い歴史 on 日経文化欄」

国立歴史民俗博物館の小島道裕先生の記事「町のうどん屋、長~い歴史」(日経新聞文化欄)を興味深く拝読し、以下、簡単にまとめてみました。国民食の一つであるうどんの歴史は古く、その起源は平安時代とも鎌倉時代とも言われています。しかし「うどん屋」が町で見られるようになるのは、江戸時代初めになってからです。特に興味深いのは、17世紀に入ってから、突然うどん屋が現れ、普及していったことが、様々な風俗画からわかることです。

次の画像は、17世紀前期の「洛中洛外図屛風」に描かれた相国寺前のうどん屋です。軒に突き出した棒の先に「うとむ」と書かれた看板があり、その下にひもが何本もぶら下がっています(「うとむ」は、うどんのこと)。店の中では半裸の男が杓子を振り上げていきり立ち、外では険しい顔の女が男を指差し、数名の男女が双方をなだめています。で、これは何かといえば、うどん屋での夫婦喧嘩を描いているところです。

洛中洛外図屛風は、京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた屏風絵のことで、16世紀から描かれていますが、当時の絵にはうどん屋さんは見られません。うどん屋が描かれた最も古い絵画の一つは、福岡市博物館が所蔵する洛中洛外図屛風で、慶長年間(1596~1615)の作品と言われています。そしてこれらの風俗画から次のような興味深い事実がわかります。

①うどん屋さんの登場は17世紀
繰り返しますが、うどん屋さんは17世紀になってから突然、風俗画に登場します。時期としては慶長年間(1596~1615)の中期から現れ、元和(1615~1624)から寛永(1624~1644)頃の作品の多くみられます。
②うどん屋の立地場所
寺社門前、遊興地、街道沿い、普請現場(堂塔建造などの工事現場)、河岸といった不特定多数が通る場所に立地し、酒屋や味噌・酢販売を兼ねていることが多い。うどん屋は、「外食産業」のはしりといってよい。当時のうどんの汁は、醤油がまだ普及していないことから、基本的に味噌味であったようです。
③うどん屋は蕎麦屋より古い
江戸においては、初期の頃はすべてうどん屋で、蕎麦屋は享保(1716~1736)の頃まで存在しませんでした。④うどん屋の看板
基本的には木の板に何本ものヒモがぶらさがっている、モップのような形態。最初は「櫛形」から始まり、後に尖頭型もしくは額形になります。看板は最初、中国から日本に移入され、その後「和洋化」が進んだと考えられています。
⑤うどん屋と暴力
初期風俗画において、うどん屋の主人は往々にして暴力的な人間として描かれていますが、それは半裸で麺棒を使うところから、棒で叩くイメージが生まれたのでしょう。

さて個人的な感想です。「関東=そば」というイメージがあるので、かつてはうどん屋さんが江戸の外食産業市場を席巻していたとは意外でした。また当時、醤油はまで普及に至らず、味は味噌味なので、ほうとう、味噌煮込み、打ち込みうどんのようなうどんであったのかも知れません。

現在、うどん県で確認されている最古のうどん屋は、金毘羅祭礼図(元禄年間、1688~1703)なので(#544)、初期の洛中洛外図屛風よりも約100年後のことになります。空海がうどんの製法を唐より持ち帰ったという「空海伝説」がありますが、このように考えると実際にうどん屋さんが登場したのは、元禄年間のことと考えるのが妥当かもしれません。最後に、今回の記事の更に詳細な内容は、次のサイトからダウンロードできますので、興味ある方はどうぞ。一部画像は著作権の関係で表示されませんので、どうしても見たいという方は、「近世初期の風俗画に見える『うどん屋』について研究ノート小島道裕著」が掲載されている「研究報告第200集」をお求めください。