#692 小麦製粉が始まる以前の時代・・・①野生小麦の粉砕

人類が最初に野生の小麦の実を口にしたのは、ほとんど想像できないくらい大昔のことでした。ちっぽけで硬い野生の小麦の実を噛んだ人は、きっとしかめっ面でそれを呑み込んだに違いありません。他に食べるものがなかったのか、それとも好奇心からか、何れにしても最初に小麦を口に入れた感想はどんなものだったんでしょう?現在とは全然違う小麦は、きっと口の中でチクチクした感触と糊みたいにべとべとしたほろ苦い食感がぐちゃぐちゃになり、酸いも甘いも入り交じった複雑なものであったと推測します。

鳥の胃袋は、穀物を丸ごと消化できますが、人間にはそのような機能はありません。表皮を割り、中の胚乳だけを取り出さないと、人間の消化液は、処理できないのです。殻のある部分は苦いし、その断片は翅鞘(ししょう=甲虫類の硬い前ばね)のような不快なもので、人間の敏感な消化管をなかなか通過することができません。それにも拘わらず、何世代、いやきっと千年にも亘り、人々は時に肉食を補う方法として、穀物を歯で砕き、それをすべて呑み込んでいたに違いありません。しかしそれは魚が、釣り針、糸、重りを全部一緒に呑み込むようなものです。

いずれにしても人類最初の粉砕器は、「人間の大臼歯」ということになります。その内に・・・、といっても気の遠くなるような時間が流れた後、誰かが、口に入れる前に2つの石に挟んで砕く方法を考えつきました。それはきっと小麦を食べることを習慣にしていたけれど、歳をとり過ぎて歯が弱くなった老人が、最初に考えついたのかも知れません。当時、石は既に様々な目的に利用されていました。人類最初の道具であり武器は、拳に握られた尖った石、つまり旧石器時代初期の握斧(あくふ)でした。

石器は、木の実を割ったり、大きな骨を叩いて中の髄を取り出したりするのに利用されていたので、小さな硬い実を割るのに使われたとしても別に不思議ではありません。石が摩耗して使い勝手が悪くなると、それを拾ってきたところに行き、古い石を捨て、新しい格好の良い石を拾います。そういった作業を繰り返すうちに、どんな形状の石が効率的であるか段々とわかってきました。

この「ごく簡単な粉砕」は、人類が狩猟生活をしていた何千年もの間は、偶然にまた断続的に実践されていたに過ぎません。しかしあるときのっぴきならない状況に追い込まれ、それを境に小麦の粉砕は習慣となりました。つまり偶然ではなく人類が目的をもって小麦の粉砕を始めます。直近の氷河期が終わる頃、氷河が後退するにつれ、ある集団は昔から捕り続けていた北極圏の獲物を、北方へと追い続けます。しかし一方では独立心に旺盛な集団もいて、彼らはその地に留まりました。その理由は、多くの動物たちが見せるような、その土地に対する愛着心かも知れないし、それとも彼らは純粋に暖かい夏や温暖な冬を好んだのかも知れません。しかしいずれにしても、彼らは変化する世界に立ち向かう勇気を持っていたことになります。つまり旧態依然の方法がまだ通用する地域を捜すのではなく、生き残るための新しい手段を学ぶ覚悟ができていたわけです。

マンモスやトナカイがいなくなると、彼らは小動物を追いかけるようになり、魚や貝も試してみます。特に牡蠣(かき)を初めて口にしたときは、かなりの勇気がいったに違いありません。夏が長くなるにつれ、フルーツや木の実は食べてくださいと言わんばかりに、大きく成長しました。そしてそこには「小麦」がありました。小麦は食べるにつれ、他のどんな植物よりも栄養があり、また美味しい食物であることがわかり、その結果、食生活においてだんだんと重要な地位を占めるようになりました。すると小麦の実を砕くことに専念するようになり、更に熟練した技術を習得し、石器がもっと効率よく使えるように改良を加えました。