#701 農具の登場②
ここで鍬や鋤の発展の経過をみていきます(画像参照)。Aはメソポタミアのキシュ(Kish)から出土した石器の鍬です(BC3,000年頃)。最初はこの石器の鍬で、地面を掘り起こしていました。Bはドナウ川流域から出土した靴型の斧頭(ふとう)とそれを柄に取り付けたもの(BC2,000年頃)。またCは中央アフリカの耕作用の掘り棒(20世紀)。石の部分に足をかけて使用するので、鋤と使用方法が似ています。Dはスコットランド沖の島で使用されていたキャッシュロムという手鍬(20世紀)。Eはデンマークで出土されたアード(ard)とよばれるプラウ(犂)(BC300年頃の前ローマ鉄器時代)。Fはイギリスのプラウ(犂)(11世紀頃)。そしてGは20世紀のプラウ(犂)。
プラウは見て明らかに、他の道具類に比べると構造が複雑で、考案するのもまた使いこなすのも難しい農具です。当初の簡易プラウは、アード(ard、ラテン語でプラウはaratrum)と呼ばれ、紀元前3,500年頃の古代メソポタミアのウル王朝墓の印章に描かれています。よってアードはこの時代から既にプラウとして使用されていたに違いありません。というのは、その後何千年も後の印章(サルゴン2世時代(BC722~705))にもプラウを使用しているところが描かれているのに加え、プラウ自体の形状もそんなに変わっていないからです。
この使用法が難しいアードは、力強いゆっくりした、そして鈍重な牛が引っぱると上手くいくことがわかり、そのためには動物やプラウを使いこなすことができる男性の力が必要となってきました。その結果、農業はだんだんと女性から男性の手に移り、鍬や鋤を使い掘りかえしていた時に比べ、畑はずっと広くまた整然としたものに変わりました。前輪が回転し、コルターとよばれる刃で土壌を切り、その後土塊を反転させる撥土板(はつどばん)が備わった本格的なプラウ、は2、3世紀のイタリアに初めて登場しましたが、それは元々は土壌の硬い中央及び北ヨーロッパで考案されたといわれています。
ただ初期のタイプのアードであってもその効果や影響力は絶大でした。男達は家畜を飼うことでその畜力を利用し、土地を再び肥沃な状態に戻すことができ、農業は定住して真剣に取り組むべき生涯の仕事となりました。そして本格的なプラウの導入により、農業は気候と土壌の適しているところであれば、世界中どこへでも普及していきました。
その内に耕作用だけでなく、刈取り用の道具も発明されますが、こちらの方はどれもこれも出来映えは今一でした。満足のいく鎌は、鉄器時代まで待たなければなりません。また初期の脱穀というのは、刈り取った穂先を何もない固い地面に広げ、その上を動物がぐるぐる廻る単純な作業でした。そしてローマ時代になると、トリビュラム(tribulum)という脱穀用の農具が考案されます。これは板に小さな石板が埋め込まれているもので、この面を下にしてその上に人が乗ると、石と人との重さで板が沈み、それを動物が引っぱることによって、地面とトリビュラムに挟まれた小麦を脱穀する仕組みです。
中世やアメリカにおいては、脱穀機が出現するまでは、 殻竿(からざお)と呼ばれる棒で、硬い地面もしくは「脱穀板」に刈りとった麦を置き、激しく叩いて脱穀しました。そして脱穀した小麦を籠に入れ、空中に放り上げながら、軽い籾殻だけを前方に放り出し、選別しました(唐箕と同じ原理です)。上画像は、キプロスのトリビュラム(20世紀)で、初期のものと形状が良く似ています。表面には硬い石が敷き詰められ、その1つを拡大したのが左上(約1/2倍)です。石を敷いてある面を下にして、その上に人が乗り、引かせることにより小麦を脱穀する方法です。また右にあるのは殻竿(からざお)で、長い方の柄を持ち、短い方を小麦に打ち付け脱穀します。このように昔の農作業は実に根気のいる重労働でした。
トリビュラムを使用した実際の脱穀作業