#716 日本の麵の歴史①・・・麺の登場時期
「麵の文化史(石毛直道著)」から「麵のふるさと中国」を簡単にまとめたので(#709、#711、#712、#715)、今度は、引き続き「日本の麵の歴史」の章をまとめてみました。前回同様、本の内容と感想とを明確に区別するために、最初に掲載内容を独断で要約し、その後気づいた点を簡単にまとめる形式をとります。
【①日本麵文化の謎】
石毛先生によると、日本の麵文化の謎は次の5つとなります。以下、順を追ってまとめてみます。
(Q1)麵の登場時期
(Q2)索餅(さくへい)の正体
(Q3)索餅とそうめんの関係
(Q4)切り麵の登場時期
(Q5)そば切りの登場時期
【②古代のコムギ粉食品】
古代農業において、オオムギ、コムギはあまり作られませんでした。養老7(723年)の太政官符(だいじょうかんぷ)の「畿内七道諸国大小麦を耕種する事」によると、コムギは救荒作物として重要なので、政府がムギの種子を百姓に分配したにもかかわらず、それを耕作する者が少なかった、とあります。当時は、回転式石臼もなく製粉技術は未発達で、粉に加工しようとすると、コメを精白するのと同じ木製の臼と搗き杵による非効率な製粉方法しかありませんでした。
食物史学者の篠田統(おさむ)によると、麦飯が記録に頻出するようになるのは、室町時代になってから、そして庶民の主食として定着するのは、江戸時代になってからです。鎌倉時代中期になると、抹茶を挽くための小型の回転式石臼、つまり茶臼が登場しますが、これは茶を楽しむ上流の人々のためのもので、農家の必需品として石臼が普及するのは江戸時代中期以降のことです。
石臼なしにコムギ粉をつくろうとすると木の臼と竪杵(たてぎね)と用いる必要がありますが、これでコムギ粉をつくるのは至難の業です。横杵は弥生時代からも発見されていますが、普及するのは元禄時代頃からです。コムギを利用する食品は、醤(ひしお)、未醤(みしょう)、糖・飴で、粒のまま利用されました。醤は醤油の祖先、未醤は味噌の祖先となる調味料。そしてモチムギにコムギのモヤシを加えて糖化させたのが水飴です。
【③索餅とむぎなわ】
索餅という名称は、後漢代や唐代に現れますが、その用途についての記述はありません。宋末、元初の本である「居家必要事類全集」には、そうめんに当たる「索麵」がでてくるので、「索餅=索麺=そうめん」であったと推定されます。
昌泰(しょうたい)年間(898-901)に完成した日本最古の漢和字書である「新撰字鏡」では、索餅に牟義縄(むぎなわ)という和名をあらわす文字をあてています。「むぎ」という言葉は、ムギの他に「コムギ粉で作った麺」という意味もあります。
東大寺大仏をつくるための役所の記録である「造仏所作帳」の天平6年(734)5月1日の条に、「麦縄六百三十了を買う」とあるのが一番古い記録のようです。よって奈良時代には「索餅=むぎなわ」は、都では市販品になるくらい生産されていたことがわかります。
索餅は朝鮮半島を経由せず、中国との直接的交流で伝わった食品である可能性があります。よって遣唐使の行き来などで、唐代の中国との直接交流があった奈良時代の索餅は、当時の中国と同じ食品であったと考えられます。
【気づいた点】
木の臼と竪杵で、小麦を製粉するのは確かに気が遠くなりそうな作業で、とてもこれでうどんが打てるだけの小麦粉が製粉できるとは思えません。日本で回転式石臼が普及するのは、江戸中期以降なので、小麦粉製品が普及するのも同時期であると考えるのが妥当です。しかし一方で、コムギコ製品である麦縄が、奈良時代には市販品になるほど生産されていたとあります。するとこの原料であるコムギコはどうやって入手したのか、気になります。
そうめんの先祖とされる「索餅」は、遣唐使によって中国より伝えられた可能性があります。すると讃岐にうどんの製法を持ち帰ったといわれる「空海伝説」も実際は、索餅だったのかもしれません。