#719 日本の麵の歴史③・・・索餅とそうめんの関係
【⑦索餅は切り麵ではないだろう】
索餅は切り麵であるとの説がありますが、以下のような理由で、索餅は切り麵でなかったと考えるのが自然です。
①使用する道具がこと細かく挙げられている「延喜式」の索餅の記事に、麺棒にあたる道具がでてこない。
②索餅(麦縄)が切り麵だとすると、縄のイメージからかけ離れる。
③切り麵を表わす「切り麦」という言葉が現れるのは、室町時代になってからのこと。
【⑧麵の計量単位・・・索麺が切り麵でないことの理由付け】
関根真隆(しんりゅう)氏は大著「奈良朝食生活の研究」のなかで、索餅(麦縄)の単位について次のように述べています。
(i)「索餅一百藁(こう)」のように、索餅の単位として「藁」が使用されるが、これは索餅の形状が縄状もしくは細いひも状だったからだろう。
(ii)「麦縄六百了(りょう)」という例があるが、「了」という単位はコムギ粉の菓子と考えられる麦形(むぎかた)に共通し、疑問が残る。
(iii)「手束麦(たつかのむぎ)五千五百廿五懸(けん)」のように手束麦、田束麦は「懸」という単位で数える。尚、これらは「延喜式」の手束索餅と同じものであろう。
「藁」、「了」、「懸」という単位は、なぜか「延喜式」以後の文献には登場しまぜん。「藁」は、一定の長さに切り揃え、束ねた単位として考えてよいでしょう。またムギワラのように、まっすぐな形状なので「藁」という名で数えられたのでしょう。
古代の字書に索餅の和名がむぎなわと記されているので、索餅とむぎなわは、同じものと考えられます。索餅の「藁」に対し、むぎなわを「了」と数えるのは、製品の形状の違いによるもの。つまり切りそうめん状の索餅に対し、長そうめんがむぎなわと考えることができます(「了」は当時、縄の単位に用いられていた)。
また索餅と手束索餅は、麵の太さの違いによって区別されたのでしょう。「手束」とは「手でにぎる、つかむ」という意味。よって2本の竹棒の間に巻きつけて、上下にひっぱって、細く伸ばしたものが索餅で、手のばしで太めにつくり、竹棒にぶら下げて乾燥させたものを手束索餅とよんだ可能性があります。「懸」とは「かける」という意味があるので、この単位が使われたのかもしれません。
【⑨索餅からそうめんへ】
14-15世紀の日記には、同一食品を索餅、素麵、索麵という3通りの名称で表していますが、室町時代になるとそうめんという言葉が普及します。新しい「そうめん」という言葉が登場した理由は、従来とは異なった麵つくりの技術が導入されたからでしょう。つまりコムギ粉と塩で練った生地を、油でコーティングすることにより、糸のように細い麵をつくる技術です(鎌倉時代に始まったと推測される)。室町時代末にできたといわれる「七十一番職人尽歌合(しちじゅういちばんしょくにんづくしうたあわせ)」の「そうめん売り」の絵に、機(はた)にかけたそうめんをさばいている情景が描かれていますが、それは現在の手延そうめんの手法と同じです。
このそうめんつくりの技術は、日宋貿易を通じて、現在の福建省辺りから伝わったのでしょう。手延そうめんつくりには相当の技術の熟練が必要なので、専門の職人が製造し、消費者は商品としてつくられたそうめんを購入するという流通が確立します。三輪、揖保といった現在のそうめん産地も、室町時代後期から江戸時代初期にかけて名を現すようになります。
【気づいた点】
索餅が「切り麵」つまり包丁で切った麵である可能性は低いと、石毛先生は考えています。そして室町時代になると「そうめん」という言葉が普及します。従来と違う言葉が登場した理由は、新しい製造技術が導入されたからと推測されます。つまり生地に油を塗布する技術です。油を塗布する利点は、①表面が乾燥しにくくなり、また②麵生地がくっつきにくくなり、作業適性が大幅に向上することです。つまり現在の手延素麺の基本技術は、室町時代に確立されたようです。