#720 日本の麵の歴史④・・・切り麵の登場

【⑩そうめんの食べかた】
室町時代にも、水に漬ける冷やしそうめんがありましたが、記録によく現れるのは、「熱蒸(あつむし)」、「蒸麦(むしむぎ)」、「蒸籠素麵(せいろそうめん)」など、蒸して食べる方法です。小笠原流の礼法書である「食物服用之巻」(1504年刊)には、「そうめんを世間一般では『むしむぎ』といい、僧侶は『点心』という」と書かれてあり、そうめんを蒸して食べることが一般的であったことがわかります。ただしここでいう、そうめんの熱蒸とは、一度ゆでたものを、蒸したものと推測されます。

セイロにいれたまま熱蒸を配膳することもあり、これを蒸籠素麵といいます。15世紀後半に一条兼良のつくった「尺素往来(せきそおうらい)」に、「穀(かじ)の葉の上の索麵は七夕の風流」とあります。同じく「尺素往来」に「索麵は熱蒸、截麦(きりむぎ)は冷濯(ひやしあらい)」とあるように、冷たくして食べるのは、切り麵が主流で、現在の「ひやむぎ」はその延長線上にあります。

【⑪切り麵の問題】
法隆寺の記録である「嘉元記」の正平7年(1353)の記事に、「ウトム」という言葉が現れますが、これが現在のうどんと同じものかどうかは、不明です。15世紀の日記類に、「饂飩」、「うどん」という言葉が現れ、それが江戸時代の「うどん」に続くことを考えると、14世紀には手打ちうどんがあった証拠として採用してもよいかも知れません。切麵(「康富記」1451年、「親元日記」1465年)、切麦(「山科家礼記」1480)、切冷麵(「蔭凉軒日録」1489年)などの言葉から、15世紀に切り麵が存在したことは明らかです。

農家に回転式石臼が普及し、初めて農民が粉食食品を食べることができるようになります。包丁で帯状に切るほうとうと、手打ちうどんの距離は近い。讃岐の打込みうどんは、塩を少量しか混ぜず、即座に粉を捏ねて、幅広く、短く切って、野菜の味噌汁に入れて炊き上げます。うどんという名前ですが、ほうとうと同じようなものです。

切り麵をつくるために最低限必要な道具は、麵棒と「のし板」である麵板、そして麵切り包丁です。麺切り包丁は、専用の包丁でなくても、古代からある金属製の刃物で代用可能です。麵棒という言葉は、15世紀中頃の国語辞典である「運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)」に「メンハウ」と記されています。また平安時代中期に作られた辞書である「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」には、「衦麺杖(かんめんじょう)」という中国語の和名として「牟岐於須紀(むぎおすき)」があげられています。「和名類聚抄」に麵板はでてきませんが、麵棒と麵板はセットで利用されるので、当然、麵板の役目をするものがあったはずです。よって平安時代には、道具だてとしては切り麵を作ることができたはずなのに、文献資料に切り麵があらわれないのは、なぜなのかその理由がよくわかりません。

一方、木工技術に着目すると違う見方もできます。麵板の普及のためには、かなりの大きさの完全な平面を備えた板を生産するための、木工技術が前提となります。平面を削りだすための台カンナが普及するのは16世紀だと言われています。大きな板をつくる縦びき製材用の大鋸(おが)が中国から伝来するのは15世紀のことです。

もちろん古代や中世の机の類などに、比較的大きな平面をもつ調度品があります、それらは貴族の邸宅や、寺院などで使用されたもので、一般には普及していません。手工業や商業が発達する室町時代になれば、職人に麵打ち用の道具をつくらせることもできたでしょう。そして江戸時代になると、大きな板も簡単に入手でき、農家でも麵打ちが可能となります。よって室町時代に切り麵が普及しはじめた様子から推定して、鎌倉時代か南北朝時代から切り麵がつくられるようになったのだろう、という程度のことしか言えません。

【気づいた点】
「熱蒸」は、一度ゆでた麵を、蒸したと推測した理由は、石毛先生が実際に現在のそうめんを使い実験した結果です。つまり乾麺をそのまま蒸しても、固いままでとても食べられたものではなく、ゆでたそうめんを蒸すとちょうど良くなったそうです。でもそこで疑問がわきます。「なんでそんな面倒くさいことをするのか?」。先生は二度手間の利点として「粘りとコシがでる」とか「ゆで後の劣化が少ない」などを挙げておられますが、どうもピンときません。しかしよく考えてみると、乾燥させたそうめんではなく、乾燥させる前の生タイプのそうめんならそのまま蒸してもうまくいきそうな気がします。これは是非やってみる価値があるかと思います。

「切り麵」つまり手打ちうどんのように、包丁で切る麵が登場した時期は、早くて鎌倉時代、そして室町時代には確実に存在したようです。現在では、手延素麺は高級麺の代名詞ですが、麵の歴史を辿ると、技術的に難しい切り麵の登場は「手延麵」よりずっと後のことです。さぬきうどんの起源を空海まで辿れるかどうかはともかく、少なくとも現在のような切り麵になったのは、ずっと後のことです。