#724 古代オリエントにおける麦作①・・・メソポタミアとエジプト
これからしばらく古代オリエントにおける麦作をテーマに取り上げてみます。穀物の栽培が始まり、家畜を飼育するようになり、そして耕作技術や穀物の処理方法が向上してくると、全ての人々が農業に従事する必要はなくなり、一部の人達だけで全ての人々を養えるようになります。その結果、ある恵まれた地域では、それまでどこにでもあった原始社会に代わり、文明という新しい生活形態が始まります。そしていち早く文明化された地域からは、文明化の影響が周辺地域に拡がり、それから少し遅れて貿易や侵略行為などを通じて遠方にも伝播していきます。そうやって変革の速さは更に加速されていきました。
村は都市に変貌し、新しく登場した君主国が、旧態依然の首領率いる部族を次々と吸収していきます。社会組織の単位は、集団から家族へと変わり、それまで目立たなかった個人が注目されるようになります。それまでは曖昧な存在だった物神や偶像は、神殿や聖職が司るより儀礼的な色彩の強い宗教へと、またそれまでは漠然と創造主と考えられていた存在は、急成長する集団の大望を解釈しまとめあげる神として奉られるようになります。そして更に専門化された職業が登場し、分業により効率化を高め、それまでの旧来の非生産的な手法にとって代わるようになります。
これまで見たことのないような道具や生産技術が開発されます。それらは車輪、陶器、簡単な製陶用ろくろ、窯、機織(はたおり)技術、織機、弓矢、その他の武器、磨製石器、金属製の道具、採鉱、簡単な冶金(特に銅、すず)、形式化された建築物、装飾芸術としての絵画や彫刻、著述、会計、そしておびただしい数のささいな技術革新です。生産力と需要が増えると、知識が増え、更なる刺激を求めて、遠隔地との交易が始まります。とりわけ重要な事実は、これら変化に富んだ新しい力が途切れることなく続いたことです。そして強い相互作用を起こしながら、それが更なる刺激を産み、発展を繰り返し、またお互いに補完し合いながら、しだいに調和した生活様式へと集約されていきました。
これらの歴史的な出来事は、ある恵まれた地域において紀元前3,500年頃に始まり、私たちはある程度の時系列で並べることはできます。しかし今ここにあげた変化というのは、私たちの歴史がまだ綴られる前の2,000年の間に起こり、その衝撃はいかにも峻烈でした。その影響は実に広範囲に及び、よってその後の人達は皆それに倣いました。そして今ようやくやっと全ての人達が農業に従事しなくても、食糧が賄える水準に到達したところです。
北アラビア砂漠周辺での降水量が減少するにつれ、砂漠周辺に住んでいた半農半牧の遊牧民は、水が手に入りやすい地域への移民を余儀なくされます。このとき彼らは、稚拙ながらも穀物の栽培技術のノウハウを携え、あるグループは、最初東に向かい、後にアッシリア人が登場したチグリス川上流域に移り住みました。そのうちチグリス・ユーフラテス川の二大流域でも住めるようになると、彼らは下流の湿地帯にまで降りてきました。また他のグループは同じく砂漠の縁を伝いながら南に向かい、最終的にはナイル川流域に辿り着きます。
私たちはこの穀物栽培者たちが、メソポタミアとエジプトのどちらに早くたどり着いたのかはわかりません。しかしメソポタミアの人達が使用していた陶器類は優れていたし、銅については最初から使用していた節があるなどの状況証拠から判断するに、メソポタミアの人々の方が最初はより進んでいたようです。