#725 古代オリエントにおける麦作②・・・エジプトの恵まれた自然環境

きっと紀元前四千年紀中頃より少し前のことですが、いわゆる頭の広いいわゆるアルプス人種と言われているシュメール人が東方から二大流域にやってきて、長頭の先住民族や西方からやってきたセム語を話す人々と混じり合います。この人種や文化の融合は極めて刺激的で、それは後の歴史でもしばしば証明されています。

優れた知性と技術をもったこの混血の人達は、この付近の極めて肥沃な土壌を十二分に活用することができました。その結果、穀物栽培という基礎技術を基に、彼らは世界で最初の文明を生み出します。ウルク(Uruk)のような大都市が次々に建設され、外壁の内では天に向かって延びる神殿が建設されました。彼らは建築物にアーチ型を取り入れ、金属や車輪を利用し、円筒印章を制作し、最古の文字である象形文字を創りだしました。

ナイル川流域には少し遅れて転機がやってきます。3期にわたる先王長時代の間に、管理体制は中央集権となり、銅は豊富に出回り、遠隔地との往来、更にはメソポタミア文明との交流も始まります。そして紀元前四千年紀の終盤、ファラオ第一王朝の時代に歴史時代の幕が開きます。

当初エジプトやメソポタミアに住むことの地理的メリットといえば、精々第一級の農地と河川くらいのものでした。どちらの夏も暑かったのですが、メソポタミアは特に厳しい灼熱でした。どちらの流域も大した鉱物資源や植物もなく、あるものといえばエジプトのパピルスとメソポタミアのナツメヤシぐらいです。ナツメヤシの茎は多少使い道がありましたが、木材はどちらでも手に入りませんでした。その代わりエジプトでは建築用に石材を利用することができましたが、メソポタミア南部では石材は極めて稀で、当時は小さな石材でも輸入していました。エジプトは冬場にデルタ地域で時折にわか雨が降る程度で、実質の降水量はゼロです。またメソポタミアは今日でも年間降水量は7インチ程度しかなく(主として冬場)、当時もほとんど降らなかったことに違いありません。

よって利用するには、創意工夫や苦労を強いられたものの、河川はこの地域の人々にとっては冨の源泉でした。そしてエジプトの人達はとりわけ幸運でした。というのは、ナイル川は増水の時期やその水量を正確に予測できたからです。6月中旬から10月中旬は、アケト(Akhet)というナイルが増水する季節で、その頃にはよく氾濫しました。水位が上昇し流域一帯を水が覆うと、人々はその広大な流域から水が逃げないように畦を作り取り囲みます。デルタ地域以外はどこも砂漠が近くまで迫っていて、耕作には不適でした。一方40,000エーカーに及ぶそのデルタ流域は、何週間もその水をたたえ、100年に4インチいう割合で、細かい肥沃な沈泥をそこへ堆積しました。そしてしばらくすると水位は徐々に下がり、川は通常の状態に戻ります。

10月中旬から2月は、第2の季節でペリット(Perit)もしくは出立といい、この時期の始めに播種をおこないます。その後、冬の間はほとんど乾燥することはありません。そして2月から6月は、シェム(Shemu)もしくは収穫の季節とよばれます。毎年播種の始まる頃の11月11~14日に行われる儀式の中で、エジプトの神々の長、穀物の神、そして冥界の神であるオシリスは黄泉の国へ向かい、翌年の収穫期の4月に復活します(下図参照)。普通なら予期できない天候の変化で、人々の予定や計画はしばしば混乱しますが、エジプトにおける人々の生活は、このように移り変わる季節の中、壮麗で不変な周期の繰り返しでした。

下図は、オシリスを形どった型枠で、発見当時は、土と穀物の種が入っていました。当時の人々は、オシリスが再び生き返ると信じていました(紀元前14世紀の第18王朝ツタンカーメンの墓)。その下は墓に描かれていた毎年恒例のオシリス植物復活祭の様子です。左はフィラエ(Philae)神殿、右はデンデラ(Dendera)神殿。