#737 サドルストーンから石臼へ④・・・アワーグラスミルの登場

その後、ようやく回転運動を利用した粉砕器が徐々に考案されますが、その粉砕効率の低さ故、根本的な発展に繋がるものは中々登場しません。そのような失敗事例が、デロス島で見つかったデリアンミルです(2番めの画像)。デリアンミルにはホッパーはなく、また上臼を支える機構もないので、直接下臼の上に載っかっています。しかしギリシア人は、失敗にくじけず、その後も回転運動における重要な応用を発明し、それがその後の製粉の発展に永続的に寄与します。

回転式の粉砕器を実用化するにあたり最大の難問は、二つの粉砕面を如何に平行に維持できるかという点に尽きます。そしてこれに対するギリシア人の解答が次です(3番めの画像)。これは二つの円錐状の石を重ねることで接触面の平行を保ち、しかもこれは回転しても二つの石の中心がずれない仕組み(セルフセンタリング)になっています。更に上石については中央のくびれより上の部分を、下半分と同じ大きさにすることによりホッパーとしての機能が確保され連続運転が可能になりました。

その結果、全体としてアワーグラス、つまり砂時計のような格好になりました。この上石は横木を押すかもしくは引くかによって回転でき、これにより人力のみならず畜力の利用も可能になりました。また上石はリンズ(軸受け機構)により下石の上で支えられているので、二つの石の間には粉砕の空間が確保されます。ホッパーの大きさは充分かつ、補給も簡単にできたので、運転を止める必要はなく、また挽いた小麦は下石の横の桶に取り分けられます。こうしてこれらの技術革新は、その後の製粉技術発展の基礎となりました。

上石を据え付ける方法は、図のように2種類あります。構造としては左が優れ、これが後のカーンやミルストーンに応用され、金属製の軸受け機構はリンズとして知られるようになります。アワーグラスミルは、デロス島、ポンペイなどを含むギリシアの各地域、そしてローマ西部地域のあらゆるところで発見されています。

もちろんアワーグラスミルも、完全ではなく、欠点がありました。それは二つの粉砕面のスペースの調整が雑で不正確であったこと、それにホッパーからの定量供給がスムーズでなかったことです。しかしそれでもその魅力は欠点を補って余りあるので、キリスト紀元前後の何世紀にも亘り、ギリシアやローマ世界で支持され続けました。他の地域では搗き臼が、粗粉砕用に使用されていましたが、ギリシア・ローマではアワーグラスミルが粗粉砕用として、しばしばレバーミルの隣に設置されていました。

ローマ人達の間では、回転式臼はモーラ・ヴァーサティリス(mola versatilis)、そしてレバーミルはモーラ・トラサティリス(mola trusatilis)と呼び区別されました。またアワーグラスミルの上石はカティラス(catillus)もしくはボウル(bowl)、下石はメタ(meta)と呼ばれていましたが、これは下石が競技場内の距離を示す円錐状のメタという目印に似ていたからです。一方ギリシアでは少なくとも紀元前5世紀以降、上石はロバを意味するオノス(onos)と呼ばれていましたが、この事実から回転運動が採用されると間もなく、畜力が利用されていたことがわかります。そしてこれが製粉において畜力が使用された最初の記録です。

臼を廻すには、主として奴隷が労力として使用されました。2世紀初頭に著されたアープレイユスの「黄金のろば」では、主人公が魔法の薬によってろばに変身し、パン屋に売られます。彼は製粉場における哀れで不幸な人々を次のように描写しています、「ああ、そこにはなんと多くのぼろぼろになった人々がいることだろう!薄汚いマントを身にまとった彼らの肩や背中は、殴られたり鞭打たれたりして傷跡だらけだ。頭は半分が剃られ、額には烙印が押され、そして足には重い鎖の足かせをはめられ、逃げられないようになっている。身体には粗挽き粉や灰の固まりがこびりつき、それは競技場で泥まみれになっている闘技者たちと同じだ」。こういった事実からもギリシア、ローマ時代の作家達の粉屋に対するイメージが如何に劣悪であるかがわかります。