#739 サドルストーンから石臼へ⑤・・・カーン(Quern)の登場
アワーグラスミルは産業用製粉機として広範囲に普及し、長期に亘り支持されますが、その理由はその生産性の高さにあります。プライニーによると、公共の製粉所なるものは、紀元前168年になりようやくギリシアからローマに伝わります。
一方、多くの家庭では相変わらず小規模製粉により小麦粉が挽かれていました。理由は家庭用としてアワーグラスミルは大きすぎて高価だし、また操作も難しいのです。しかし上部に充分なホッパーがあり、連続運転可能な回転運動そのものは魅力的だったので、その優れた原理を小型の家庭用にも応用することになりました。
まず図体のでかいアワーグラスミルは止め、手頃なサイズの丸い石を2つ重ね合わせます。次に両者を粉砕面の中心に向け、やや円錐状にし、中心にピボット(軸受け)をとりつけ、滑るのを防ぐ工夫をしました。そして上石のホッパーとリンズはそのまま残し、クランクハンドルを取り付けることで、女性でも無理なく操作できるように改良されました。
後にカーン(発音としてはクワーンが近い?)と呼ばれるようになったこの挽き臼には多くの利点があったので、孤立した地域や一部の後進地域を除き、それまでの家庭用粉砕器の定番であったサドルストーンに取って代わりました。スラブミル、プッシュミル、レバーミル、そしてアワーグラスミルは全て過渡期の形態で、カーン出現後は一般的に使用されることはなくなります。カーンはそれまで考案されたどの粉砕器よりも効率的かつ、家庭用の手頃なサイズに収まったので家庭で支持され続けます。カーンは後に水車や風車で駆動されることになる円形のミルストーンの原型として、歴史的に見て意義があります。
カーンは紀元前5世紀頃までには、地中海全域にほぼ行き渡り、少し遅れてガリアとスペインのセルティック族にも普及します。科学技術の分野においては、切迫感の少ない民生技術分野よりも、軍事技術において開発が早く達成されることがしばしばあります。それは古代においても同様です。行軍中の軍隊や海上における船隊に食料を供給することが喫緊の要事でした。しかし当時は軍隊も船隊も腐敗しやすい小麦粉の状態で持ち歩くわけにはいかず、常に小麦の状態で携行し、毎日必要な量だけを製粉していました。小麦粉がすぐに劣化する理由は、現代と違い、当時は製粉前の小麦をきれいにする作業、つまり精選が十分でないためです。その結果、挽いた小麦粉は、すぐに穀物害虫が発生したり、腐ったりしたようです。
駐屯地や船上では、アワーグラスミルは大きくて重く、またレバーミルでさえ持ち歩くのが厄介なので、より軽量で効率的な製粉機の登場が待たれていました。つまりこういった軍事上のニーズにより小型のカーンの開発および普及が促進されたわけです。クセノフォンの著書「キュロスの教育」の中には、行軍用の携帯製粉機についての記述があります。それによると紀元前2世紀までには、ローマ軍は5~10人の班に1台の割合でカーンを装備していました。よって行軍の先々でカーンの存在が人目に触れ、それが普及に弾みをつけたことは想像に難くありません。次の画像は、1607年パドゥアで出版されたヅォンカの著書にある、馬により駆動される行軍用製粉機です。17世紀近世になると行軍中は、馬の畜力を利用し移動製粉機で小麦粉を挽くようになりました。
余談ですが、ギリシアの粉屋同様、ローマの粉屋も当初は、「搗く人(pounders)」、つまりラテン語では「ピストレス(pistores)」と呼ばれていました。そして関連語を辿っていくと、すりこぎ(pestle)だけではなく、ギリシア語のプティッソ(putisso)、つまり「搗く(pound)」にも関連し、更にpoundの語源は大麦を意味するピティス(ptis)です。つまり粉屋の名前の由来は、「小麦を搗いて小さくする方法」や「穀物そのもの」になるわけです。