#759 水車式製粉の始まり③・・・ウィトルウィウス水車の先進性

直接駆動型製粉機と比較して、ウィトルウィウス型が成し遂げた功績の第一は、水車は小川の中に水平に置くより垂直に立てて置いた方が、効率が良いという事実に気づいた点です。これは後にタービンが発明されるまでの間、主流となりました。二番目は水車と石臼(ミルストーン)とを連結する歯車の発明です。そしてこれらの偉業により、あてもなく勢いよく流れている水は、明確な目的をもった動きへと変換され、計り知れない潜在能力をもった機械が作られるようになりました。

やがてその「力」は、ざっと思いつくだけでも、のこぎりの操作、織物製造、鉄工所の操業、水の汲み上げ(揚水)、鉱石の粉砕など様々な用途に応用されるようになります。そして遂に1700年頃になると、スウェーデンではクリストフェル・プールヘムによって水力だけを利用した初めての工場が建設されました。そこでは圧延機、剪裁機(せんさいき)、また独自に考案した種々の機械類を駆使した大がかりなラインが作られ、工具類や種々の物品が製造されました。

ただウィトルウィウス型製粉機の潜在能力は高かったけれども、あまりに先進的過ぎて、当時は社会様式や雰囲気に馴染まず、使用されるようになったのは、それから何十年も後になってからです。当初の製粉機には当然、不備もありました。例えば5世紀のアテネ型製粉機(画像参照)に使用されていた上掛式水車は、水が上方から落下するため可動部分がぶれて動きが安定しないという欠点がありました。加えて当時、奴隷や家畜は安価でしかもふんだんに入手できたのに対し、水車製粉の建設には高額の設備投資が必要でした。当時の著述家は、誰もその発明の重要性を、賞賛していない事実からも、それが全く評価されてなかったことがわかります。

その後、徐々にですが人手が不足している地域からこの新しい機械は受け入れられるようになります。アウソニウスは3世紀、ガリア王国モゼルにおいて、水車製粉について触れています。一方、英語での文献では、762年、ケント王国のエゼルベルトの憲章で言及されています。水車製粉がイングランドに導入されたのはその何世紀も前だった可能性はありますが、アングロサクソンに関する文献は極めて少ないので詳細は不明です。

世界最初の土地台帳・ドゥームズディ・ブック(1080-1086)の調査によると当時5,624台の製粉所が記録されていますが、このうちほとんどは間違いなく水車製粉で、それ以外は畜力製粉でした。その頃になると水車製粉はヨーロッパの丘陵地の小川が流れるところでは、ほとんど至るところで見ることができる一方、平地では風車製粉が導入され始めます。その後15世紀になりヨーロッパ文化が次第に影響力を増してくると、水車製粉や風車製粉は、ヨーロッパ人たちにより世界中に普及し始めるようになります。

水車というのは力学や水力学上の難しい問題を多く含んでいるので、その発展は経験則に頼らざるを得ません。よって進歩は牛歩のようにゆっくりしたものでしたが、それでも何世紀にも亘る努力の結果、確固たる進歩が達成されました。一例を挙げると、水車に連結している水平方向の軸は、石臼の真下まで延びていますが、この部分には大きなトルクもしくは強いねじり力が生じます。よって木製の軸及び石臼を支えている部分は、その強い力に持ちこたえられるだけの強度を保つ必要がありました。

しかしこの問題は水平方向の軸を短くし、新しく一対の歯車を導入することで解消され、1588年ラメッリが描いたデッサン(画像参照)の頃には、長い歴史をもつ技術として定着しました。小さな歯車はできるだけ水車に近い部分に取り付けられ、この素晴らしい平歯車が、石臼に連結している片方の歯車を廻します。そしてこの平歯車のお陰で、2台以上の石臼も動かすことも可能になりました。