#775 風車製粉の始まり⑤・・・風車製粉の衰退
上手に設計された風車製粉は、初期の頃でも収益性が高く、14世紀のイギリスの書物では次のように書かれています。「牧草地1エーカー1年間の年貢は3ペニー、納屋と牛小屋付の農場は5シリング、そして風車小屋は15シリングで、これは60エーカーの年貢に等しい」。しかしここで取り上げた風車は、様々な改良が行われる以前のタイプ、つまり手動で風車小屋の向きを変えることができる小さなタイプで、その能力は精々2台の石臼を稼働させる程度のものです。
翼の直径が50~60フィートの普通タイプのポストミルを使用した場合、時速10マイルのそよ風が吹くと1台の石臼で1時間あたり約6ブッシェル(380ポンド)の小麦を挽くことができます。また75フィートの翼を持つタワーミルなら同様の風で、1時間1台あたり8ブッシェル(480ポンド)が製粉できます。ポストミルは通常、2台の石臼を稼働させるので、そのときはその2倍の量を挽くことができ、タワーミルなら4台を稼働できるので4倍の小麦を挽くことができます。更に強風になれば、どちらもその更に2倍生産することができます。イギリス・ノーフォークにある大きな風車は、翼が100フィートもあり6台の石臼を同時に稼働でき、普通の風で時間当たり40ブッシェル(2400ポンド)を挽くことができ、強風なら更にその2倍が生産できたといいます。
それではなぜこれらの地域から風車の姿が消えてしまったのでしょうか?フィンチはイギリスのケント州における風車の数の調査をしたところ、1596年から19世紀前半までは堅調に増え続け、当時239台が稼働していました。しかしその後の減少は急激で1930年には、僅か16台を残すのみでした。この傾向はどの地域にも共通していますが、その凋落の原因は、風力の断続性に他なりません。この不便さは自家用の小さな設備であれば問題ありません。しかし大きな製粉工場になると、企業レベルとして更に大きな投資をし、膨大な小麦の供給量をこなし、また市場の絶え間ない小麦粉需要に応えるために、連続的な作業が必要になってきます。蒸気機関の信頼性が向上するにつれ、蒸気機関およびそれから更に発展した原動力が、当てにならない風力機械にとって代わるのは、どんなにコストが高くつこうが避けられない状況だったのです。製粉産業が個人的な活動から大規模製造業へと成長するにつれ、風車は消え去る運命にあったのでしょう。
水車において経験した様々な欠点を克服しながら、風車は発展しました。しかし風車が強力かつ信頼性のある機械になるためには、なお数多くの問題が解消されなければなりません。しかしかつて様々な困難を克服して、単なる気まぐれな空気の流れを価値あるものにしたのと同じように、これらの諸問題が更なる刺激となって、更なる自然現象の研究や機械工学の大きいなる発展へと繋がります。
水車や風車の建造者は、物理学者でもなければ数学者でもなく、自然法則は何一つ発見していません。しかし彼らはこれら自然界における基本的法則の仕組みを、体験を通じて探求し、最終的には彼ら自身の言葉でそれを編みだしました。つまり実質的には彼らは自分たち自身でエネルギー保存の法則を発見し、それに関連した数学の公式を自ら導き出し、機械装置を考案し、改良し、最終的にエネルギーを自由に変換し制御できるようになったのです。後の世代においては、高度な教育を受けた人々が、科学を応用しながら生産量の拡大を始めますが、彼らが研究において実際に使用した道具類といえば、元は全て製粉大工たちが考案したものです。歴史が始まってから以降18世紀頃までの間、科学的研究は主として産業界がリードしてきましたが、それはゆっくりとまたぎこちないものでした。しかしその進歩は蓄積され続けると同時に、その進捗のスピーは徐々に速くなっていきます。