#791 新しい動力源の登場④・・・土木工学(civil engineering)の誕生

水車と風車は、新しい体制の中でも重要な役割を担っていました。それらが更に大きく、そして精巧になるにつれ、生産高も増え、その更なる供給先を求めるようになります。人口が増え需要が増大する度に、生産能力は目一杯まで引きだされ、製粉所からはそれまで以上の製品が出荷され、そして消費されていきました。すると今後はもっと広い道路やたくさんの船が航行できる水路が必要になり、その結果商品は更に幅広く流通するようになりました。

産業が成長拡大するにつれ、多くの製粉大工が登場したが、そのうちに今度は逆に製粉大工が一人もいなくなる状況が生じます。というのは大きな工場は、個人の経験則だけでは建設することができず、製粉大工の手には負えないのです。建設には莫大な資金が必要となり、その構造は細部にわたり複雑で、そこには数え切れないほど多くの新しい、そしてまだ試されたことのない技術が含まれています。18世紀初頭までに多くの巨大工場が建設されましたが、その中で最大のものはイギリスのダーウェントにあるロンベ絹糸紡績工場です。

5階建ての長さ110フィートの建物には468の窓があり、その中には直径23フィートの水車が合計14,000もの糸車を廻していました。巨大な水車が稼働するにつれ、貯水池、ダム、放水路、最大水位や最低水位における運転方法、また水車の種類の選択など様々な問題が生じるようになり、水車建設についての確固たる理論が求められるようになります。水車大工たちは科学に無知というわけではなく、彼らの本にもしばしば、物体、力、運動、慣性力、重力、摩擦、モーメントなどといった言葉が登場しました。そしてそれらを利用して、機械の出力、材質の強度、そして力と摩擦と仕事量との関係を取り扱おうと試みましたが、いかんせん彼らが会得した科学の知識や理論は、所詮片手間に学習しただけなので曖昧で、未知の状況では役に立ちませんでした。

工場設計や建設の需要が高まるにつれ、工学技術という新分野が誕生します。この分野で多大な貢献をしたジョン・スミートンは、1761年自ら土木技術者(civil engineer)という新語を造りだしました。その理由は、それまでは軍需産業をほとんど独占していたヴォーバンに代表されるように、技術者といえばほとんどが軍事技術者(military engineer)で、それと区別するためでした。スミートンの時代から19世紀にかけては、工学技術は主として水車技術の完成が目的で、その期間は実に数多くの水車が様々な目的のために使用されました。またこの間、産業が発展する中で、風車は徐々にその存在意義を失いつつありました。そして相前後してスコットランドの低地地方は、産業分野でイングランドに大きく遅れをとりましたが、その理由は結局のところ当てにならない、また扱いにくい風力に頼っていたからです。

水車大工は技術者に、また風車はより洗練された水車に取って代わられたのと同様に、水車も最終的には産業における原動力としての地位を失い、忘れられてしまう運命にあります。18世紀終盤になると蒸気エンジンが登場し改良されるにつれ、19世紀初頭には輸送手段が格段に向上し、その結果安価で信頼性の高い、取り扱いやすい動力がどこでも利用できるようになりました。すると水車というのは、港湾、商業地、原材料の供給地、そして市場といった全ての面で非常に不利な立場であることが判明します。加えて信頼性にも劣るため、動力の供給面での不安も多く、最終的には見捨てられてしまう運命にありました。産業革命は18世紀後半に始まりますが、水車はこの産業革命のごく初期の段階、そして地域限定的に、その役割を担っていたに過ぎません。

この産業革命の変化により、私達の生活様式も大きく変貌することになります。蒸気エンジンの登場により、それまで2000年にわたり続いてきた「機械の時代」は「エネルギーの時代」に道を譲ります。そして絶えず新しい力を受けながら加速度を生じ、私達の生活の変化は益々加速されることになります。