#799 「ラーメンの誕生(岡田 哲著)」

言うまでもなくラーメンは、日本が誇るめん食文化の中でも、超人気アイテムの一つです。加齢により嗜好は変化するものの、ラーメンが嫌いな人は、まずいないでしょう。著者によれば、「ラーメンは、私たち日本人が創作した中華風の和風めん料理」。本著ではこのラーメン文化がいかに形成されたのかが、詳細に説明されています。以下、簡単に興味深かった点をまとめてみました。

著者はまずラーメンについての3大不思議を挙げます。①ラーメンのようなめん料理が日本にはなかなか登場しなかった。②第二次世界大戦後、大陸からの引揚者などにより、中国の餃子やめん料理がもたらされると、一気に日本全国に浸透、普及した。③今日では、世界中で食されている。

中国におけるめん料理は、中国料理の発祥ほどは古くありません。理由は、原料となる良質のコムギ粉がなかなか入手できなかったからです。これはコメと比較すればよくわかります。コメの外皮は籾(もみ)として分離しやすく、また玄米の表面の糠層は、容易に剥離しやすいので簡単に粒のまま調理できます。一方、コムギは、胚乳部分は柔らかく、外側のふすま部分は固く、カニのような構造をし(多少オーバーですが、なかなか旨い表現です)、しかも中心部には縦に深い溝(粒溝)があるため、外皮を上手に取り除くのは至難の業です。

江戸期まで日本人は、中国のめん料理には全く関心を示しませんでした。著者によるとこの理由は①肉食の忌避②油料理の忌避③かん水の入手方法が困難の3つがあるといいます。かん水は炭酸ソーダ、炭酸カリを主成分とするアルカリ塩溶液ですが、このアルカリ性が小麦粉中のフラボノイド色素を発色させラーメン特有の黄色となり、また独特の「ぷりぷりとした食感」を生みます。

日本は長い鎖国政策を転換し、幕末の1859年6月2日、横浜は開港場となります。1871年の日清修好条約調印を契機に山下町界隈には、架橋の居留地ができ、1897年(明治30)には2,000人を超えます。そして彼ら相手の「柳麵(リュウミエン、広東音はラオミエン)」の屋台ができます。ラーメンが誕生する前には、シナうどん・南京そば・チャンポン・皿うどん・シナそばなどが、横浜・長崎・東京・喜多方・札幌などで次々と考案されます。そしてこれら共通項は、①中国の料理人により作られためん料理は、②当初架橋や留学生相手でしたが、③そのうち日本人が興味を抱き始め、④日本人の嗜好にあっためん料理に変貌していきます。

「シナそば」という言葉は、明治末期から昭和初期にかけて料理書で定着します(但し、明治後期から大正初期にかけては、かん水使用の中華めんは入手不可)。そして「ラーメン」という言葉の初見は、1950年(昭和25)の「西洋料理と中華料理(主婦之友社)」とされ、そこではかん水もキチンと説明されています。

第二次世界大戦後、大陸からの引揚者がもたらした中国各地のめん料理の特徴が混ざり合い、さらに日本人の和食化への努力の繰り返しの結果が、今日のラーメンのルーツを形成しています。またラーメンの語源については諸説ありますが、著者は次の2点を支持しています。①明治初期に、横浜の架橋の居留地に発生した屋台では包丁で切る「柳麵(リュウメン)」と呼ばれ、②東京浅草の来々軒は、シナそばの元祖と言われますが、1910年(明治43)の開店当初は、文字通り手で延ばす「拉麺(ラーミエン)」でした。尚、ウエブスター事典にはラーメンとは、日本のインスタントラーメンであるとの記述がありますが、その発明者である安藤百福氏の奮闘ぶりも本書では詳細に記述されています。ご興味ある方はぜひご一読ください。

またラーメンはそば粉を使用していないにも拘らず、ソバと称した理由についても諸説ありますが、著者は「かん水を入れることで食感がソバに類似」する説を支持しています。その根拠は、「日本家庭大百科辞典事彙(1930年、富山房刊)」のシナそばの項に、「小麦粉を使うので、うどんに違いない。しかしかん水で捏ねるので、その硬い歯ざわりが蕎麦に似ているので、シナそばと呼んだ」とあるからです。つまりかん水によりグルテンが引き締まり、その「ぷりぷり感」が「ソバ」と言われる所以です。