#805 ピュリファイアーの発明②・・・社会構造が小麦粉に及ぼす影響
昔はどんなに素晴らしい石臼でも、小麦の粒を上手に割るのは困難な作業でした。19世紀後半までは、歩留りもしくは品質のどちらかを優先するしか方法がありませんでした。つまり多くの中程度の品質の小麦粉と僅かの低品質小麦粉、もしくは高品質と低品質の小麦粉をほぼ同量とるかの二者択一でした。そしてどちら選択しても、最終的な小麦粉の歩留りは同じ75%程度で、それ以外は小麦ふすま(表皮)となりました。
アメリカやイギリスの粉屋は総じて、手っ取り早い方法を優先した結果、精選工程は大雑把となり、石臼の間隙を狭く設定し、一度に挽き切る方法を選択しました。一方、それとは対称的に1800年当時フランスの粉屋は、小麦粉の歩留りではなく品質を追求しました。彼らは小麦の精選を丁寧に行い、過度の圧力を避けるために効率の悪い小さな石臼を使用し、通常よりも石臼の間隙を充分に空け、何度も何度もゆっくりと小麦を挽きました。そして独自の道具を考案し、何種類もの小麦粉をとり分け、その最上級粉は当然ながら、当時のイギリスやアメリカの小麦粉の品質を遥かに凌いでいました。
それではなぜこのような「歩留り」もしくは「品質」のどちらか一方を優先する極端な製粉方式が存在したかといえば、それはその時代の社会構造が大きく影響しています。つまり社会構造が極端であればあるほど、製粉方式も極端な方式となります。イギリスやアメリカにおいて流通していた単一品質の小麦粉は、言ってみれば全ての人々がひとつの標準品を使用すべきという考えですが、そのような平等主義は、当時他の国々には見られませんでした。他方、フランスの品質優先の製粉方式は、当時の階層的社会構造に深く根付いていて、言い換えると階層的社会構造が生活必需品にまで影響が及んだということです。
フランス方式では、上級粉はその繊細かつ上品な価値を認め、それを購入する余裕のある階層の人々によって利用されたのに対し、50%程度生産される下級粉は、一般市民によって消費されました。つまりフランス方式は、両方の小麦粉の価値を支持する人々がいたからこそ存在することができたわけです。イギリスやアメリカの市場は、フランスの下級粉に対して無関心でしたが、同時に高価な上級粉を購入しようという階層も少なかったわけです。
当時のフランスでは、篩い作業ひとつをとってみても手作業で行われ、同じ量の小麦粉を生産するには、明らかにアメリやイギリスに比べて多くの人手が必要でした。そしてもし我々が、当時フランスの東方に位置するさらに封建的なオーストリア帝国を訪れることができていたら、もっと奇妙な光景を目にしたに違いありません。1825年頃のオーストリアやハンガリーの製粉工場は、フランスの製粉工場と比較して、製粉工程数や機械の種類もさることながら、とりわけ手作業の多さでは群を抜き、フランス人でさえ「果てしなき製粉方法」と呼んでいたくらいです。
この東ヨーロッパの段階式製粉方法は、一説によるとミドリングス等を含む84種類ものストックにとり分け、その夫々はすべて人手によって次の工程へと運ばれていきます。工場内には何百という小さなバケツが設置され、ミドリングスの回収口には必ずそのバケツが置いてあります。何十人という人々が、製粉主任の指示によって、忙しそうにそのバケツを次から次へと移動させる、このアリ塚のような不思議な光景を初めて見た人は、きっと戸惑うに違いありません。
そこでは「皇帝の小麦粉」と呼ばれる歩留り10%以下の特別な白い粉とかなりくすんだ40%程度の粉、そしてそれ以外の粉というように、いくつかのグレードに取り分けて販売されていましたが、それは確固たる封建制度社会が存在するからこそ成立する商売形態でした。つまり少数ではあるが、裕福で要求の高い貴族層の存在、そして安い労働力が潤沢にあるために、機械の改良による効率化を図ろうというインセンティブが生じない社会構造がハンガリー式製粉方法に合致していたわけです。