#819ロール製粉機への道程②・・・ザルツバーガー型製粉機

1830年、ワルシャワに会社を所有するミュラーというスイス人が、製粉工場建設を思い立ち、1833年にフラウェンフェルトに5階建て製粉工場を建設しました(画像参照)。その工場では当初、スイスのヘルフェンバーガーが1820年頃に開発したロール製粉機を使用していましたが、その後まもなくウィーンのボリンジャー兄弟が改良した製粉機に変更します。ボリンジャー兄弟のロール機は、3本の溝付ロールを横からみると三角形のように配置し、下方のロールは上方2つの片方と連動しています。このロール機は3本のロールがくっついた不格好な構造になっていますが、実際の粉砕は上方の2本のロールによって行われ、下方のロールは主としてそれらを支えながらストックをうまく分離するのが役目です。しかし結果的には、このロール機は機能的に不十分で、実用化されることはありませんでした。

その後この工場建設に携わったスイス人技術者ヤコブ・ザルツバーガーがこのシステムの改修工事を引き継ぐことになります。彼はそこで2つの重要な変更を行います。まず各階に配置されていたロール機を全て動力源に近い1階に集中させた結果、従来ロール機の振動によって生じていたトラブルはほぼ解消されました。そしてこのとき採用されたロール機の配置が、その後の製粉工場における標準レイアウトとして採用されることになります。2番目に、ロール機の構造を大幅に見直し、省力化及び省スペース化を行った結果、ストックがうまく流れるようになりました。しかしまだまだ問題は山積し、中でも致命的な欠点は、ストックが篩い工程や純化工程を経ずに、3対のロールをそのまま通過することでした(画像参照)。

ただ様々な問題のあったザルツバーガー製粉機でしたが、結果的には常に特級粉12%を含む、72%の上級粉を供給できるようになりました。つまりその製粉方法は、当時としては大成功を収め、その後、スイスのクリーンス、イタリアのメレニャーノやベニス、ドイツのミュンヘン、シュテッティン、ライプツィヒ及びマンハイム、そして1839年にはハンガリーのブダペストなど次々と製粉工場を建設しました。しかしその後のザルツバーガーによる製粉工場建設は順風満帆だったわけではありません。1830~1860年代においては高額な建設費用や維持費のため、やがて1工場閉鎖されてはまた1工場と、除々に減少します。

当時のロール製粉機による生産性は、高いものではありませんでした。ミュンヘンのルートヴィヒ製粉工場では、28名の工員と36台のロール機で、毎年13,000ブッシェルの小麦を製粉していましたが、当時は9名の工員と13台の石臼で26,000ブッシェルの生産が可能でした。つまり工員1人当りの生産性でいえば、石臼はロール機の6倍以上です。しかも知識と経験を積んだ熟練の技師でなければ、ザルツバーガー型製粉機の性能を十分に引きだすことができず、それが大きな障害でした。しかし1864年、ネフがアドリア海に面する都市フィウーメ近くの製粉所に、ザルツバーガーロール機の改良版を導入すると状況は一変します。彼は駆動方法を簡略化し、ロール長を9インチに伸ばし、更に回転速度をかなり遅くする工夫を施します。そしてロール機を使用したハンガリーの段階式製粉方法は、ここからスタートします。

1867年、ハンガリーはオーストリアとの二重帝国の形成により、自治権が与えられ、それが契機となって、経済及び自然科学の急速な発展が始まります。1839年から1867年においては、商業製粉工場は僅か1工場しか建設されませんでしたが、それ以後1880年までには9工場も建設されました。またザルツバーガーによって建設されたブダペストのロール機製粉工場は、1868~1869年にかけて増強工事が行われ、そこではオスカー・オクスレにより、ネフ型改良ロール機40基が導入されたといいます。