#821ロール製粉機への道程③・・・ブッフホルツ型製粉機

1862年、将来を大いに嘱望されたブッフホルツが、ザルツバーガー製粉機に改良を加えます。そしてイギリス、スコットランド、アイルランドにおいては、1869年までに7つもの製粉工場が、このブッフホルツ型製粉機を導入しました。

これは、一つの筐体に6対のロールが設置され、全体として一つの製粉機械として動作する仕組みです(画像参照)。ロール同士の間には振動篩いが配置されていて、3対のロールは片方の駆動輪に、そして残りの3対のロールは反対側の駆動輪に連結されています。篩い目を通過した細かいストックは、ホッパーに集められた後、ロール機の片側に運ばれて落下し、コンベアで上階に持ち上げられ、そこで回転式篩い機で更に篩い分けられます。このことからブッフホルツは、粉砕されたストックは必ず篩い処理が必要であることを明確に意識していたことがわかります。

ブッフホルツのロールは長さ30インチ、直径10インチで、溝を切ってあり、そのいくつかは現在のロールと良く似たらせん状で、しかも速差ロール(両方の回転速度が異なるロール)を採用しています。材質は鉄製ですが、必ずしも満足のいく出来栄えではなく、噛みあい部分も圧力による自動調整型ではなく、単なる固定式でした。粉砕されたストックのうち細かいものは篩いの下に落下した後、上階に運搬され、大きな回転式篩機によって、小麦粉が篩い分けられる仕組みです。残りのストックは、ブダペスト方式、つまり間隙の異なる4種類の石臼を、毎分75回転というゆっくりとした速度で回転させながら、段階式製粉方法により小麦粉が取り分けられます。

ブッフホルツの近代製粉における最大の貢献は「ブレーキの概念」、つまり「小麦粒を砕かずに皮部を開くように破砕する」概念を発明したことと言われています。また彼はブレーキロールだけでなくそのストックを分離する篩い工程も一つの筐体の中に収めました。更にはミドリングスについても段階的に小さくすることの重要性を認識していました。彼のロール機の評判を聞きつけたリバプールのラドフォード社は、1870年にアルバート製粉所から石臼を全て撤去し、ブッフホルツのロール機を導入しました。

ただ残念なことにブッフホルツ製粉機はやがてその欠陥を露呈し始め、次第に行き詰まるようになります。その理由は、とにかく余りに多くの部品を使用しているために、一度不具合が起こると調整が難しく、また修理しようにもなかなか手が出せないのです。つまり一度に多くのことに挑戦し過ぎた結果です。そして更に重要なことには、仮にこのような問題が解決されたとしても、ストックの処理自体に問題があったため、最終的は、現場で働く職人たちの支持は得られなかったと言われています。つまり当時は、まだ高性能の良いピュリファイアーが十分に普及しておらず、そのためにブッフホルツ製粉機からとり分けられるミドリングスの処理方法も充分ではなく、これらが致命的な欠点となったと言われています。

話が前後しますが、当初このような様々な技術革新に対して、多くのイギリスの製粉経営者や技術者たちは、無視したり、疑いの眼差しでみたりしていました。しかし1868年、オスカー・オクスレがネフ型ロール機を導入したのをきっかけに、風向きが変わり、新技術導入に熱心な人々が次第に増えてきました。オクスレは数多くの製粉会社から契約を得ることに成功し、ロール製粉機やハンガリー式ピュリファイアーを多数納入しました。またその後1872-1873年には、グラスゴーにあるトレードストン大型製粉工場において、ネフ型ロール製粉機20台の導入工事も指揮しました。ただ不幸にも1872年、彼はロール機設置中に起こった粉塵爆発により失明します。しかしその不幸にもめげず、その後も製粉技師としての職務を全うし、アメリカにおけるロール製粉機導入にも尽力しました。この時期は製粉技術の過渡期にあたり、大型の製粉所では謎の粉塵爆発が頻発し始めた頃で、当時の関係者たちを悩ませていました。