#833近代製粉の確立②・・・製粉近代化の試み

19世紀も後半になるとロール製粉機も普及に弾みがつき、徐々に石臼を代替するようになります。1880年代の初め、イギリスの著名な製粉技師であるヘンリーサイモンが試算したところでは、石臼の目立て費用は年間75ドルにもなり、「旧式の石臼ラインを近代的なロール製粉機でそっくり置きかえても、そのかかった費用に対する支払い利息は、目立て費用よりも安価であるので、コストはただ同然だ」と結論づけました。しかし石臼が完全に無くなるにはもう少し時間がかかります。あるドイツの業界誌によると、ヨーロッパにおける製粉産業拠点のひとつであるブダペストにおいては、1882年時点では、石臼を使用していない製粉所はなかったとの記述があります。

イギリスにおいては1868年、リバプールのアルバート製粉所では、ブッフホルツが考案した6対のロールが組み込まれた製粉機を導入し、その2年後には、石臼が全て撤去されました。しかしこの製粉所は、「段階式製粉方法」を採用していませんでした。ブッフホルツのロール製粉機を通過した小麦は、それぞれのストックに対して処理が施される訳ではなく、単に6対のロールを通過したストックを混ぜあわせただけでした。当時開発されたロール機のほとんどにおいて、ロール機通過後のストックは、正しく処理されることなく、ただ単に混ぜ合わせるだけなので、段階式製粉方法の恩恵を受けることはありませんでした。よってブッフホルツによる非効率的で手間のかかる方法は、その後まもなく使用されなくなります。

1873年、フランシス・ストールマイヤが、イギリスのトンプソン社の改修工事を行ったときは、確かに世界初となる自動式の段階式製粉方法を採用しましたが、そこではロール製粉機だけでなく石臼も併用していました。またブッフホルツの息子が1879年に設計したビルストンにあるバーロー社の工場は、よく世界初の全自動ロール式製粉工場といわれますが、肝心の段階式製粉方法を採用していません。これは小麦がロールを通過するときには6㌧もの圧力がかかり、その結果激しく潰され、そこで篩われたストックは2番目のロールで粉砕され、そこで製粉工程が終了するという単純な製粉方法でした。

一方、アメリカの事情はというと、1876年のフィラデルフィア万国博覧会において展示されていた製粉機を万博閉幕後、セラーズ社が購入し、別途スイスから直接買い付けたロール製粉機と一緒に、製粉工場に設置します。そしてこの工場は、果たしてロール製粉機のみを使用した、ほぼ全自動であったようです。しかしドラバールによれば、これは「ハンガリー方式や段階式製粉方法を一切実践していない唯の製粉所」にしか過ぎず、アメリカの製粉産業にはほとんど貢献はなかったようです。言い換えると、セラーズ製粉所は、「単に石臼を使用しなかっただけ」という歴史的意義しかなかったということです。

このように新工場がいくつも建設されますが、①完全自動化、②ロール製粉機のみを使用、③段階式製粉方法の実践、という3条件を満たした近代的な製粉工場はなかなか登場しません。歴史的に重要なことは誰が最初に建設したかという事実ではなく、誰が最初に計画し、それに感化され、他の人たちもそれに続いていこうという気持ちにさせ、決定的方向性を示したかということです。つまりロール製粉機を考えると、実質的な発明者は、ザルツバーガーやその先人達というよりもウェーグマンやガンツ社の人々であるといえます。そして同様に考えると、近代製粉は、これから紹介する1878-1879年におけるウォッシュバーンのテスト・ミル(実験的製粉工場)から始まったといえます。これはウォッシュバーンの依頼により、オスカー・オクスレ が設計し、グレイとアリス商会により建設されたものです。