#836 近代製粉の確立③・・・近代製粉の誕生

世界初の近代的製粉工場は、ミネアポリスのウォッシュバーンのテスト・ミル(実験工場)になります。以下簡単にその概要を説明します。1878年5月2日、ウォッシュバーンA工場が粉塵爆発を起こします。原因は、ストックがない状態での石臼の空回転による火花が引火したと考えられています。たちまち供給不足に陥ったため、オーナーであるウォッシュバーンは、直ちにB工場隣地に新工場が建設することを決断します。現場に駆けつけたウォッシュバーンは、予定の基礎部分よりも更に余分に歩測した後、持ち前の決断力の早さで、「この地点まで建設することにしよう」と指示をだします。

彼の意図は不明ですが、その結果、新工場は長さが145フィートと予定より幾分大きいものとなり、新工場は稼働し始めて丸一年経過した1880年1月、正式にウォッシュバーンC工場と呼ばれるようになり、1882年には一日当り2,000バレルの小麦を挽砕するようになります。さてこのC工場は、ウォッシュバーンが余分に歩測した結果、建物の南端には長さ18フィートの空間がそっくりそのまま残ってしまいました。

当時建設の責任者であったアリス商会の技術者グレイは、その20年後、回想録で次のように述べています:「私はそのぽっかりと空いた空間を、暫くじっと眺めていた。するとひょっとしたらこの空間は、ロール製粉機だけを使用した新しい製粉方式を試すには、絶好の機会かも知れない。更には先進的なウォッシュバーンは、この考えにきっと共感してくれるに違いないと、考えるようになった。そしてその空間に、日産100バレルの小規模テスト・ミルの建設を認めてくれるようウォッシュバーンに頼んだ」。

案の定、ウォッシュバーンはその申し出を快諾し、それからほどなくしてテスト・ミルのプロジェクトを率いるオスカー・オクスレが、ロール製粉機、ピュリファイアー、回転式篩機などを手配してミネアポリスにやってきました。そしてアリス商会がその真新しい建物の南端の1階から4階にかけて、テスト・ミルを設置します。1879年5月には試運転が始まり、テスト・ミルには、ロール製粉機、ピュリファイアー、アスピレーターが設置されたのに加え、アメリカで培われた全自動方式のノウハウも採用されました。

次の図は、その概略ですが、果たしてウォッシュバーンのテスト・ミルは完全全自動、ロール製粉機のみを使用、そして段階式製粉方法の実践という近代製粉であるための3条件を満たした最初の製粉工場となりました。C工場の精選ラインから小麦が供給され、このテスト・ミルで製粉された小麦粉は、再びC工場の充填ラインへと戻される仕組みです。このテスト・ミルの生産能力は決して高くはありませんが、品質は高く、歩留まりも良好でした。

一方、商業製粉としての初の近代的製粉工場は、1881年春に拡張工事を終えたピルズベリー兄弟のエクセリシア製粉所(日産800バレル)になります。これは標準サイズの商業製粉としては初めて①全自動②ロール製粉機飲みを使用③段階式製粉方法の実践の3条件を満たす近代製粉工場であり、製粉産業の発展における重要な一歩です。そして1881年に東棟、翌年1882年には西棟の拡張工事を終えたピルズベリーA工場は、日産5000バレルと当時世界一の製粉工場となりました。

その後、さらに最先端の製粉機械を導入しながら拡張工事を続け、ピルズベリーA工場は、その後も永きに亘り業界首位の座を守り続けます。ピルズベリーA工場は1884年冬、ミネアポリスで初めて蒸気機関を導入。また一連の穀物用カントリーエレベーターを計画的に設置し、1889年からはピルズベリーが業界で初めて小麦の混合挽砕も開始しました。