#847 讃岐うどん屋発祥の地

「讃岐うどん屋発祥の地」がどこであるかは、うどん県民にとっては興味ある問題です。先日(2023.2.12)地元新聞に「讃岐うどん屋発祥の地」なる記事が掲載されました。記事によると、讃岐うどん店発祥の地として琴平をアピールするために同町内のうどん店11店により「讃岐うどん屋発祥の地 こんぴら會」が発足しました。

「琴平が讃岐うどん店発祥の地である」とこんぴら會が主張する根拠は、300年以上前に金刀比羅宮周辺を描いた屏風絵「象頭山社頭並大祭行列屏風(#554)」です。これは1703年頃の制作で、秋の例大祭時の境内や門前町の様子が詳細に描かれています。注目すべきはその中にうどん店が3軒描かれ、しかもそれぞれ「うどん打ち工程」、「めん切り工程」、「捏ね工程」といったうどん作りにおける異なる工程を描いているので、当時の作業内容がよく理解できます。

この屏風を眺めていると、当時のうどん打ちの情景が目に浮かんでくるようです。また各うどん店の軒先をよく見ると、スルメのような形をした看板が吊るされていますが、これが「招牌(しょうはい)」で、今で言ううどん店の「のれん」です。現在、香川県では、「さぬきの夢」を100%使用したうどん店の中で、「ここのうどんなら誰にでも自信を持ってお薦めできる」とお墨付きを与えたうどん店を、「さぬきの夢・こだわり店」として認定していますが、このこだわり店には、必ずこの招牌が吊るされています。話は戻り、この屏風絵に描かれているうどん店が、現在うどん県で確認されているなかでは一番古いので、「こんぴら會」は、琴平町が讃岐うどん屋発祥の地であると主張しているのです。

一方、滝宮が位置する旧綾南町(現綾歌郡綾川町)も、うどん発祥の地であると主張します。根拠は、空海の甥でありうどんの「祖」といわれる「智泉大徳(ちせんだいとく)」が滝宮出身であることです。智泉は、唐の進んだ文化を携えて帰国した空海に、唐に伝わる麺の打ち方を伝授されたと言われています。麺作りの技術を習得した智泉は、故郷の両親をこの麺でもてなしたといわれており、これが「滝宮説」を主張する根拠です。また綾川町を含む中讃地域は、うどんの原料となる良質な小麦の産地で、かつて農家は川の流れを生かして水車で小麦を挽き、自家製のうどんを作っていました。現在でも、この地域にはうどん店や製麺所が数多く存在します。ただ滝宮説には、琴平説のように明快な物的証拠がないため、その主張はなかなかビミョーなところではあります。

さて現存する最古のうどん店としてよく登場するのが、高松市鬼無町の「ヨコクラうどん」。創業は幕末と言われ、現在の大将は5代目。3代目はとてもユニークな大将で、当時はめずらしかった圧力釜でコシが強くて旨味のあるおうどんを提供されていました。またトラック(今で言うキッチンカー)で全国各地へさぬきうどんの普及活動にでかけられていたように記憶しています。

さらに現在のうどん県の主流となっているセルフ店の第1号店となったのが、久保義明氏が経営されていた㈲久保製麺です(#073)。読んで字のごとく、元々は製麺屋でしたが、「ここでうどん、食べさせてくれんな!」との声が相次ぎ、店頭サービスを開始。すると保健所から「食中毒がでたら困るがな!」とのクレームが入りました。当時はうどんの玉卸しの許可しかありませんでしたが、「製麺と飲食をする場所の間に仕切りを作って申請したら、三ヵ月後に飲食の許可が下りた」そうで、晴れて、お店でうどんを食べさせることができるようになりました。よって、「製麺」と「飲食」の許可を両方とったのは、㈲久保製麺が最初で、かくして「さぬきうどんセルフ第1号店」が誕生したのであります。