2003年1月のお知らせ
明けまして おめでとう ございます
今年は寒いお正月でした。ゆっくりと過ごされましたでしょうか。先日、友人と幼い頃のお正月風景を思い語りました。大晦日には、「ものぐた」に蕎麦・うどんを何枚もつくり、毎食のように食べました。お餅はもちろん、杵と臼でつくります。杵にお餅がくっついて、容易にできません。父親は「面倒だけど、この作りかたがいちばん美味しい。」と、頑固にゆずりませんでした。寝坊をしていると、「お雑煮のお餅がながれてしまう。」と母親の声。火鉢を囲みながら暖をとり、ふっーと息を吹きかけると「灰」がとび、部屋をよごしてしまいました。学校ではみんなで囲んだ丸い石炭ストーブ。お弁当をストーブの回りに並べて温めました。黒い石炭はキラキラしていました。
ノーベル賞を受賞した田中耕一さんの勤務先 島津製作所。矢嶋英敏(やじまひでとし)社長が島津製作所に入社したのは1977年。42歳の再出発でした。それまでは日本初の国産旅客機を開発する日本航空機製造の社員でした。「日の丸旅客機」として開発した「YS11」は、60人乗りのプロペラ機。1200メートル級の短い滑走路でも発着できるのが特徴です。海外営業マンとして、暑い南米から激冬のアラスカまで 世界中を飛び回りました。1964年から1973年までに、182機の「YS11」が生産され、約80機が海外に輸出されました。しかし、「日本航空機は技術的には成功したが、経営的には失敗だった」と、1982年に解散しました。「360億円の赤字というのは確かに大きい。が、当時の国鉄の赤字のわずか1年分ですよ。外貨獲得の貢献も大きかったのに」と矢嶋さんの愛着は残ります。矢嶋さんが失意の底にいたとき、熱心に声をかけてくれたのが、航空機部品の調達で取引があった島津製作所でした。1998年、「思ってもみなかった」という社長の椅子が回ってきました。「なぜ、島津製作所からノーベル賞が生まれたのでしょうか。」という問いに、矢嶋社長は答えます。「比較的、研究の自由度を確保してきた社風があります。人的にも資金的にも7割は明日のご飯のために使い、残り3割は次世代に芽が出るかもしれない基礎研究に充ててきました。そして、京都という風土も重要です。伝統工芸から受け継がれたものづくりの技術と、権威に同調しない反骨精神が、独創的な企業家や企業を多く排出してきました。京セラ・テレビゲーム機の任天堂・衣類のワコールは、この京都の土地に位置します。今春、創業以来初めて希望退職者を募りました。今、日本の製造業者は苦闘しています。でも、めげてはいません。日本の製造業は底力がありますよ。」力強い返事です。
2003年がはじまりました。皆様がご健康で、楽しい毎日をすごされますように・・・。
お体 大切になさってください。
木下製粉株式会社会社 平成15年1月6日