2009年4月のお知らせ

瀬戸大橋の香川県側のたもとに、宇多津(うたづ)町があります。香川県のほぼ中央に位置した、人口約1万6千人の町です。古く、宇多津は寺院の町でした(私は、知りませんでした。でも、小さな町内にたくさんの寺院があることを、不思議に思っていました)。7世紀後半、「鵜足津(うたづ)」と呼ばれていた小さな港は、讃岐有数の船着場として発展しました。やがて瀬戸内海における海上交通の要所となり、室町時代(1336年~1573年)将軍足利義満の側近、細川頼之公のもとで四国の中心地として栄えました。

米・大豆・干鯛・小麦などが積荷として運ばれました。宇多津は、丸亀城を中心とする西讃岐と区別されて、高松藩主松平氏の統治に属しました。宇多津の米蔵は最大規模だったそうで、多数の年貢米を収納していました。天保9年(1838年)の記録によると、人口3584人に対して、1693人は商人・職人・水主(すいしゅ・・船頭・船乗りなど)などで占められていました。宇多津の町が、経済の中心地として栄えていたことが伺われます。

「温暖で雨が少なく、日照時間が長い」という瀬戸内海式気候を利用して「塩づくり」も盛んでした。塩田の歴史は、1744年(江戸時代)酒造業者・今田八五郎が古浜塩田を開拓したことに始まります。江戸時代に開発された入浜式塩田は昭和30年代まで続きその後、流下式塩田に転換されました。ポンプで海水を汲み上げ、竹の小枝を階段状につるした枝条架(しじょうか)に流し、太陽熱と風で水分を蒸発させて、お塩を作ります。入浜式塩田のように「砂」を運ぶ必要がなくなり、労力は大幅に軽減されました。近所で「入浜式塩田」の仕事に携わった人が、「えらい(体にきつい)仕事やった・・・。特に夏の太陽の下での仕事は、えらかったで・・・」と話してくれました。

「うっすら・・」とですが、海の砂浜近くに「枝条架」が並んでいたことを憶えています。昭和41年、塩田をまったく必要としない製塩法である「イオン交換樹脂膜式」が発明されました。昭和47年1月30日、宇多津町は歴史的に転換の時を迎えました。塩田・製塩事業の操業停止です。総面積186ヘクタールの日本一の規模を持つ塩田跡地だけが残りました。

20年前、瀬戸大橋が開通して以来、宇多津町は大きく変わりました。塩田跡地はゴールド・タワー、ショッピング・センター、複合型映画館、ホテルなどが建設されました。同時に、JR宇多津駅の南側には「古い町並み」が残っています。2月28日の土曜日、「宇多津の町家とおひなさん」という催しがありました。今年で6回目。昔ながらの町家(まちや)に「ひな人形」を飾り、訪れた方たちに見て頂くという催しです。明治時代に作られた「お雛さま」。100年の長い時を経て、気品が感じられます。

格子(こうし)の出窓に飾られた「手まり」(優しい心使いです)。市松(いちまつ)人形。「わ~懐かしい。こんなの、あったわよね~!!」と、あちらこちらから、声が聞こえてきます。人々の日常生活が、そのまま感じられる「お雛まつり」です。一軒の「駄菓子」屋さんを見つけました。ラムネ菓子・くじ引き・水あめ・・・小さい頃の思い出が、たくさん詰まっているお店です。祖母が私に買ってくれた「お雛さま」が、いつのまにか、なくなっていました。この季節、いつも思い出します。「私のお雛さまは、今どこにいるのだろう」と。

4月のお休みは 18日(土曜日)、29日(昭和の日)
   それと日曜日です。

「白いこぶしの花が咲き始めたよ!!見に来て!!」と友人からの知らせ。昔の人々は、「こぶし」の開花時期から、農作業の時期を判断したそうです。おからだ、大切になさって下さい。

木下製粉株式会社会社   平成21年4月2日