2010年3月のお知らせ

「ボー・ボー」・・・遠くから、ゆったりとした、深みのある「霧笛」の音が聞こえてきました。海上では霧が立ちこめているのでしょうか!?暖かい朝で、一日が始まりました。ニュースは、「午前中、海上での視界は500m。船の運航は止まっていました」と伝えました。

2月12日、淋しいニュースが伝えられました。高松市と玉野市宇野(岡山県)を結ぶ「宇高航路」が3月に廃止されることになったのです(信じられません!)。宇高航路は1910年6月に開設されました。奇しくも、今年は開設100年の記念すべき年です。高松と宇野間の20キロを、約1時間で結びます。1961年には宇高国道フェリー、1966年には四国フェリー、そして1984年に津国汽船が事業を開始しました。宇高航路で建築資材を運んでいるトラック運転手さんは、「1日1500キロ走ることもあります。フェリーでは、移動の合間に1時間の休憩ができる。運転手にとっては、ありがたい1時間です」と残念そうです。宇野から、高松市の自動車教習所に通う女性は、「幼稚園の頃から、フェリーを利用していました。瀬戸内海の島々を眺めながら、あの島はなんという名前の島だろう・・と友達とおしゃべりしながら、ゆっくりと移動する時間が楽しみでした」と。瀬戸内海の景色を見ながら、それぞれの想いが浮かんでくるようです。

当時、連絡船から降りた乗客は接続列車の座席を確保するため、重い荷物を持ちながら一目散に走っていました。小学校のときには先生から、濃霧のために衝突、沈没し、修学旅行の生徒たち168人が犠牲になった紫雲丸事故のことを聞きました(それ以来、しばらく修学旅行先は四国島内になりました)。東京の大学にいった私は、宇高連絡船に乗るたびに、故郷を遠く離れるという想いに駆られました。宇高連絡船の船内はいつも満席でした。出港時にはなぜか決まって「蛍の光」の曲が流れていました。沢山の人たちが、様々な思いを抱きながら、連絡船を利用していたと思います。友人たちは「連絡船のデッキの上でな、潮風に吹かれて食べるうどんがほんまに旨いんや。ほんだらやっと讃岐に帰って来たなと思うんや!」と言います。

1988年4月9日、宇高連絡船の最後の日がきました。伊予丸・土佐丸・阿波丸・讃岐丸が宇高連絡船として運航していました。土佐丸出航のアナウンスです:「宇高連絡船も、とうとう今日を最後に消えることになりました。いろいろな思いでご乗船いただいている事と思います。みな様の思い出を大切に、高松までの1時間の航海、どうぞお楽しみ下さい。今後も宇高連絡船を、皆さまの胸の中におしまいくださるようにお願いします。みな様のよき航海をお祈りいたします」。このアナウンスはラジオの全国放送で流されました。

会社のアルバムの中で、1枚の写真を見つけました。「宇高連絡船 さようなら」と書かれた連絡船の入り口で、先代社長が立っています。78年間私達の生活に密着し、運航続けた宇高連絡船。先代社長はその最期を見届けたかったのでしょう。瀬戸大橋の開通(1988年)以前は、坂出駅から岡山駅まで、汽車・フェリーを乗り継いで3時間かかりましたが、現在はマリン・ライナーで、たったの50分。瀬戸大橋を通過している時間は10分ほどです。今、香川県・岡山県は国土交通省に「宇高航路の存続」をお願いしています。宇高航路は交通手段のみならず、私たちにとって心の故郷です。

3月のお休みは 22日(春分の日の振替休日)、27日(土曜日)
   それと日曜日です。

太陽の光の色が、「きらきらした春の色」になりました。おからだ、大切になさってください。

木下製粉株式会社会社  平成22年3月1日