2013年11月のお知らせ
10月初め、「香り」により季節に気づきます。早朝の「ひんやり」とした空気の中から、優しい香りが流れてきます。橙色の「金木犀」が、子供たちの笑顔のように微笑んでいます。
「想い続けていると、お会いできる・・」という出来事を、去年の秋、実感しました。30年ほど前に読んだ「四百字のデッサン」というエッセイ本。(ネットで本を注文できる時代ではなかったので)書店で手に取りながら、偶然、出会いました。作者は野見山暁冶さん。読みながら、作者の感情が自然に、そして静かに、心の中に伝わってきます。去年、旅先の空港でのこと。乗り換えの飛行機を待ちながら、ふと、視線を斜め前に移すと、二人の男性が座っていました。一人の方が、野見山暁冶さんに似ているのです。「まさか、こんなところで・・」自問しながら、見つめていました。
隣の方が、「どうぞ、お座りください」と、声をかけて下さったとき、思い切って尋ねました。「あの~、いっしょに、おられる方は野見山暁冶先生ではないでしょうか」。「あ、そうですよ。よく、わかりましたね」。「私、30年前に本を読んで以来、お会いしたかったんです」。「先生は画家としてよりも、文筆のほうが有名ですよ・・」などと冗談を言いながら、紹介して下さいました。先生は笑いながら、冗談を聞いています。「写真を、お撮りしてもいいでしょうか」。私の表情は、緊張していたようです。先生は「自然な表情で、いっしょに撮りましょうね」と、ゆっくりと話しかけてくれます。ブルー・ジーンズにチェック模様のワイシャツ。「飛行機の中が寒かったせいか、鼻水がでてきて・・」とハンカチで「そっ」とおさえる仕草は、優しさにあふれていました。
野見山暁冶さんは、1920年(大正9年)12月17日、福岡県の穂波村(現在の飯塚市)に生まれました。故郷の炭鉱の風景が、制作の原点だそうです。「よくボタ山で遊んだ。・・・その斜面を登ったり降りたりした」と、「ボタ山(石炭採掘後の燃えない捨石)」の思い出を記されています。1943年、東京美術学校を繰り上げて卒業し、朝鮮半島へ出征(後に、長野県の無言館の開館のために、戦没画学生の遺作を収集します)。1953年(昭和28年)から1964年までフランスに滞在。「先生が住んでおられた頃のパリと、現在のパリは異なりますか?」。「ずいぶん、変わりましたよ」。「たとえば、どんな点でしょう?」。「あの頃は、安心でした。何かを盗られるという様な雰囲気はありませんでしたよ」。
2008年に開通した東京メトロ副都心線の8つの駅は、公共の空間で14点の絵画などを展示しています。明治神宮駅の地下1F(神宮前交差点方面改札口)に、野見山暁冶さんのステンド・グラス「いつか会える」があります。画風が抽象化されたものに移り変わってきたそうです。「抽象画は解らないな~」と言われる方が多いと思います。でも、何かに魅かれる「エネルギー」にあふれています。おそらく、「いつの時代においても、前を見続けて歩まれている人」の力強さなのでしょう。近著では、東北震災の被災地のこと、原発のこと、地球のことを心配されています。平成25年11月24日まで広島県の尾道市立美術館にて、「消えないもの・・頭のなかできえないものがある。それを画いている。野見山暁冶展」が開催されています。ステンド・グラス「いつか会える」を観たから、野見山先生にお会いできた・・と、ふと、思いました。
秋祭りの準備!神社の石門の「しめ飾り」が取り換えられていました。小学生の子供たちが、みんなで作ったそうです。小さな手の「ぬくもり」がたくさん詰まっています。おからだ、大切になさってください。