2017年9月のお知らせ

m201709葉月(8月)中旬、夕暮れの時刻が早くなるとともに、夏の暑さも少しずつ和らぐことを実感します。そして、眠る前に聞こえてくる鈴虫の音色は、「今日も無事に一日を終えることができました・・」と心を穏やかにしてくれます。

毎週土曜日、朝日新聞に「Be() on(オン)  Saturday(サタディ)」という特集版が掲載されます。第1面は、様々な分野で活躍されている人たちが紹介されます。例えば、宮大工の技術を伝えていく方、美術館の庭園を絵画の一部として考え、木々の手入れをされている方、お祭りに集まる子供たちのために、「飴細工」を作られる方・・など。そして、いつの頃からか・・今週はどんなことが書かれているのかと、特集版の「○○歳、私の証 あるがまゝに行く」というコラムを楽しみにしていました。

100歳を過ぎても医師を続けられている日野原(ひのはら)重明(しげあき)さんのコラムです。1911年、山口県の生まれ。東京の聖路加(せいろか)病院に勤務され戦後まもなく、「医師が患者を大切にして、対等に接するアメリカ医療の一面」に注目してきました。看護師の仕事を重視し1988年、日本で初めての「看護学」としての大学院博士課程を開設しました。驚いたのは、記憶に残る歴史的な出来事に遭われていることです。1945年3月の東京大空襲で負傷者を救護したときは33歳。

1970年、「よど号ハイジャック事件」に遭遇しました。羽田発福岡行の日航機よど号が赤軍派学生にハイジャックされ、4日間ちかく122人の乗客と乗務員が機内に閉じ込められた事件です(私も、この事件を鮮明に覚えています)。乗客の一人であった日野原さんは58歳。無事に解放された後、「許された第2の人生を、人にささげたい」と記されています。

1995年、83歳の日野原さんは地下鉄サリン事件の際、併設の聖路加病院の礼拝堂を即座に救急患者の収容スペースに変え、治療に携わりました。手元にある、「99歳、私の証 あるがまゝに行く」のコラムには「今年は、私が100歳を迎える年です。・・・2011年から2020年までの10年日記を購入しました。いま、2014年以降の予定を記入しているところです」と書かれています。102歳のコラムは、俳句の往復書簡を交わしてきた中学生の小林凛(こばやしりん)君をお家に迎え、時間をともに過ごしました。「そわそわした気持ちで、凜君を我が家に迎えました。・・・彼は13歳。私はまもなく103歳を迎えます。90歳の年の差があるのに、まるで恋人からのように、彼からの便りを待ち焦がれていました」。そして・・・。2017年7月29日付の「105歳、私の証 あるがまゝに行く」のタイトルは、「読者の皆様に最後のごあいさつ」でした。

「読者の方々の応援があって、長く連載できました。・・これで、私からのメッセージは終わりにしたいと思います」と締めくくられ、この日のコラムは、口述により記されたものでした。2016年、日野原重明さんと「墨」で表現する美術家の篠田(しのだ)(とう)(こう)(1913~)さんとの対談番組を見ました。日野原さんは「生き甲斐と生きている姿を、皆さんに見せたい」、篠田さんは「その日を風まかせに生きているの。一度も目標をもったことがないわ」と対照的なお二人。常に信念を持たれ、歩んでこられたことが伝わってきました。話題の豊かさに感服しました。頭を少し右前方に傾けながら、話される笑顔が素敵な日野原さんは、7月18日、旅立たれました。

9月のお休みは、9日(土曜日)・18日(敬老の日)・23日(秋分の日)そして日曜日です。

夏の甲子園での高校野球選手権大会、香川県からは(東かがわ市に位置する)県立三本松高校が出場しました。1回戦では山口県の下関国際高校と、2回戦では東東京代表の二松学舎大学付属高校と、3回戦では西東京代表の東海大学菅生と戦いました。試合終了を告げる「サイレンの音」は様々な想いを巡らさせてくれます。汗と涙が入り混じった日焼けした選手たちの「表情」から、パワーを頂きました。おからだ、大切になさってください。