2017年11月のお知らせ
神無月(10月)中旬、早朝(6時)から、秋祭りの「獅子舞の鐘の音」が勢いよく聞こえてきました。瀬戸大橋を見渡す高台に位置する高屋神社から、高屋の町内に「恵みの鐘の音」が響きわたります。
初秋、社内旅行で岡山に出かけました。あまりにも近いので、「何処へ、行ったん!?」と尋ねられます(笑い・・)。瀬戸大橋を経由して、倉敷市の大原美術館を訪ねました。何度も訪れた美術館ですが、年齢とともに異なった印象を持つことに気づきます。「なぜ、地方の街の美術館に、美術の教科書に紹介されているような絵画が所蔵されているのだろう?」と、幼いながらも疑問に思っていました。
1642年、倉敷は江戸幕府が直接、統治する「天領」となり干拓事業が行われました。「児島」「玉島」などの島々は陸続きになりました。この干拓地にどんな作物が栽培されたと思いますか!? 塩分を含む干拓地は稲作には適しないので、塩分に強い「綿花」が植えられました(紡績産業が栄える原点です)。明治時代には日本初の民間紡績である「玉島紡績所」「下村紡績所」「倉敷紡績所」が誕生し、地域の繊維産業の発展に貢献します。倉敷紡績所の2代目社長「大原孫三郎(1880年~1943年)」氏は岡山孤児院の石井十次牧師と出会い、慈善活動に感銘を受けクリスチャンになりました。初等教育を受けていない(紡績工場の)工員のために職工教育部を設立して、働きながら学ぶ工員の教育を支援しました。1923年、倉紡中央病院(現在の倉敷中央病院)を設立して、工員のみならず市民の診療を実施しました。広い視野に立って、 未来を考えて行動されている方だと驚きます。
大原美術館の成り立ちは二人の人物、「大原孫三郎と児島虎次郎」の出会いと友情に端を発しています。岡山県高梁市に生まれた児島虎次郎(1881年~1929年)は東京美術学校への入学前に、「大原奨学会」の援助を得るために大原家を訪ねます。孫三郎は虎次郎の誠実な人柄に魅かれ、後にヨーロッパへの留学を勧めました。虎次郎は3度に及ぶヨーロッパの滞在中、「日本の芸術界のために・・」という想いから、美術作品を収集します。大原美術館内を散策すると、虎次郎の「芸術作品への先見の明」に驚かされます。虎次郎への想いを馳せて1930年(昭和5年)、孫三郎は大原美術館を開館しました。日本で初めての個人美術館の誕生です。
孫三郎の長男、大原總一郎(1909年~1968年)は「美術館は生きて成長していくもの」という信念のもとに、近代日本絵画や民藝運動に関わる作家たちの作品を収集しました。永六輔さんが書かれた「お話供養」というコラムを思い出しました。「お通夜、お葬式について・・小さなところでささやかにやるのも粋というか、洒落ている。その人に合ったものがいいんです。・・素晴らしかったのは倉敷の実業家・大原總一郎さんのお葬式です。美術館の隣の庭の真ん中に大名籠が置かれていた。その籠に大原さんの亡骸が安置され、交響楽団が籠を取り巻くように配置され、レクイエムを演奏していました。参列者のお焼香はなく、交響楽団の間を歩きながら大名籠を一回りして、お別れをして、それでおしまい。よほど前もって決めておかないと、ああはいきません」。人柄と人生が感じられるコラムでした。来月は、岡山県の美星町ついてお話しいたします。
11月のお休みは、3日(文化の日)・18日(土曜日)・23日(勤労感謝の日)そして日曜日です。
台風の後、道端にたくさんの「柿」が落ちています。神社での「お神楽の奉納」では、赤ら顔のお面を付けた「お酒の神さま」が、人々にお酒を振る舞う仕草をします。思わず、笑ってしまいました。そろそろ、冬の季節への準備が始まります。おからだ、大切になさって下さい。