2019年11月のお知らせ
日曜日の昼下がり、「白い杖」を持ち、歩いている方に出会いました。「こんにちは・・」「こんにちは。私は、日赤病院近くの社会福祉センターに行くのですが、こちらの方向で良いですか?」「こちらの方向に行かれると、中央通りに出ると思いますよ」と指差しながら、私は、その方の目が不自由であることに気づき、慌てて手を握って方向を伝えました。「明るい声と穏やかな表情」にあふれた方に出会い、私は、何の不自由もなく過ごしていた日常生活に感謝した日曜日でした。
社内旅行の続きです。兵庫県のほぼ中央の朝来市(あさごし)に位置する生野銀山(いくのぎんざん)を訪ねました。生野銀山は平安時代の大同(だいどう)2年(807年)に「銀」が発見されたと言われ、室町時代の天文(てんぶん)11年(1542年)、将軍が任命した守護職(しゅごしき)(当時の行政官)山名(やまな)祐豊(すけとよ)の指揮のもとに採掘が始まったそうです。新潟県の佐渡銀山や島根県の石見(いわみ)銀山とともに、江戸時代の徳川幕府の財政を支えてきた鉱山です。
江戸時代末期、鎖国中の元治(げんじ)2年(1865年)、薩摩藩は「欧米先進諸国の産業や近代技術への関心、優れた人材を養成する」必要性を感じ、(13歳から31歳までの)若者19名をイギリスやフランスに派遣しました。留学生の一人、朝倉(あさくら)盛明(もりあき)(1843-1924)はフランスで語学や鉱山学を学びました。当時25歳の盛明は慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会では、薩摩藩展示物の紹介という大役も果たしました。盛明は(当時の)イギリスやフランスの国々にどのような印象を持ったのでしょうか!?
「生野銀山絵巻」に描かれている「坑内」の図は、一人の人間が腰をかがめて、やっと通れるほどの狭く低い採掘場が描かれています。明治元年(1868年)、明治政府は貨幣制度の改革により(貨幣の)材料の確保のために、そして西洋の優れた技術導入のための資金源を得るために、「金・銀」の鉱山開発に力を注ぎ、生野銀山を直接、経営するようになりました。薩摩藩で雇われていたフランス人鉱山技師ジャン‐フランソワ コワニェJean-François Coignet は朝倉盛明とともに生野銀山に移り、鉱夫・ポンプ職人・レンガ職人・医師など24人のフランス人技術者も「生野の鉱山町」に招かれました。
「のみと金槌(かなづち)」の代わりに「火薬」が使われ、産出量は大きく増加し、鉱石の分析技術・ポンプを使用した排水技術・道の舗装技術などが導入されました。坑道の長さは350km以上、深さは880mにも達し、採掘された鉱石は70種類に及びます。1973年に閉山され、現在は資料館・生野銀山文化ミュージアムにて生野銀山の精錬の歴史を知ることができます。夏に訪れたとき坑道内は涼しく、むしろ寒いと感じるほどでした(笑い)。
夏に訪れる方は、上着をお持ちすることをお勧めします。坑道内の見学をおえて、外に出ました。薄暗い雨雲が「山あいの生野の鉱山町」をすっぽりと包んでいます。雨降りの中を歩きながら、坑道内で働かれていた方たちや遠い日本の国に来られたフランス人技術者たちの生活・生野銀山が近代日本発展の基礎を支えていたことに想いを馳せました。湿度の高い鉱山跡は、ワインやお酒の貯蔵にも利用されているそうです。来月は備前焼工房を訪ねたことをお話します。
11月のお休みは、11月4日(文化の日の振替休日)・16日(土曜日)・23日(勤労感謝の日)そして日曜日です。
初秋の暗い夜道を、神社へと急ぎます。「秋のお神楽」が奉納されるからです。「ひんやり」とした空気の中から優しい香りが漂ってきました。「金木犀(きんもくせい)の香り」です。秋の深まりを感じます。おからだ、大切になさって下さい。