2022年11月のお知らせ
夕暮れの時刻が早くなりました。仕事を終える頃、夜の戸張に包まれ始めます。どんなとき、どんな場所で「秋の訪れ」を見つけたり、感じたりしますか?早朝の「ひんやり」とした空気。金木犀(きんもくせい)の優しい香り。道路の脇に集まった黄色い「枯葉🍂」。澄んだ夜空に輝く「星☆」たち。
いつ頃からでしょうか。古い家具や古い小物に心を惹かれるようになりました。高度成長時代を経て「使っては、捨てる」という消費社会を経験してきた私は、物事の見方が少しずつ変わってきました。新聞に紹介されていた「漱石の硯」というコラム。「夏目漱石が使っていた硯?まさかぁ・・」と思いながら読みました(笑)。そう・・「夏目漱石が使用していた硯」のお話でした。
夏目漱石は、慶応3年(1867)、「江戸牛込馬場下横町」(現在の新宿区)にて生まれました。江戸時代から明治維新への混乱期の中で幼少時代を過ごします。17歳のとき大学予備門に入学し、漱石に影響を与えた俳人の「正岡子規」に出会いました。子規から文学的・人間的な親交を学び、「漱石」の名前は、正岡子規のペン・ネームのひとつから譲り受けられました。大学卒業後、明治28年(1895)、愛媛県尋常中学校の英語教師として赴任します。偶然にも、静養のために故郷の松山に帰省していた正岡子規とともに、俳句に専念します。
明治33年(1900)、文部省は英文学の研究のために、漱石に英国への留学を命じました。しかし、漱石は英文学研究に違和感を覚え始め、神経的病症を発したそうです(驚きました)。そんな折、正岡子規の「志(こころざし)」を受け継ぎ、俳句雑誌「ホトトギス」を創刊していた高浜虚子は、漱石に小説を書くことを勧めます。明治38年、「吾輩は猫である」を発表します。小説家としてのスタートです。余談ですが、JR松山駅の「みどりの窓口」は「木の格子」で作られて、女性の駅員の方は、坊ちゃんの「まどんな」のような「矢羽根模様の袴」スタイルで、仕事をされていました。
「漱石の硯」のお話に戻ります。硯の持ち主は、「石津信子」さま。夏目漱石の長男のお家に、家政婦として50年以上もお勤めされた方です。ある日、長男の方が、「これ あげる」と硯を手渡しました。「永い間、我々のそばにいて、忠実に家を守ってくれたことに対する感謝の気持ちと思ってください。夏目純一」という添え書きとともに・・。蓮の花の上に「蛙」が乗っていた珍しい形の硯。贈られたときは「蛙」はなく、「蛙はいつのまにか飛び立って 姿が見えなくなってしまいました」とユーモアあふれる添え書きも書かれてありました。いま、この「漱石の硯」は、東京都新宿区の「漱石山房」記念館にあります。
11月3日(文化の日)・12日(土曜日)・19日(土曜日)・23日(勤労感謝の日)そして日曜日です。
「京都の北野天満宮でのフリー・マーケットで、白色の鶴の刺繍が飾られた赤い着物を、買ったのよ」と、フランスから来た友人が言ったことを思い出しました。古いものに出会うと、いつ、どのように使われていたのかなぁ・・と様々な想いが膨らみます。 おからだ 大切になさって下さい。