人が最初に野生の麦の実を口にしたのは、ほとんど想像できないくらい大昔のことでした。食べた感想といえば、きっと口の中でチクチクした感触と糊みたいにべとべとしたほろ苦い食感がぐちゃぐちゃになり、酸いも甘いも入り交じった複雑なものであったに違いありません。そして人類最古の製粉というのは、製粉というより小麦を砕くという表現が正しく、大雑把で粗野な技術は、まだまだ未発達の状態にあり、ほとんど全ての人々がその粉砕作業に従事していました。次に石器時代になると、石器を使った粉砕が行われます。小麦粉は調理せずに生のまま摂取していましたが、やがて火を使って調理するようになり、これが文明生活の始まりです。つまり我々は道具や新たな調理方法を創出し、一歩前進したわけです。

様々な技術が発明されるにつれ、徐々に文明化が進み、想像できないくらい永く、石で粉砕する時代続いた後、ようやく製粉と呼べる形態が出現します。しかしそれはまだ農業、パン焼き、醸造、更には政治や宗教がごちゃまぜになった一連の食品製造の複合体の一部であり、製粉はまだそこから未分化の状態であったといいます。人々はその複合体の中において、それぞれの役目を担っていましたが、誰もが粉屋、パン職人、醸造者、もしくは聖職者や王様といった独立した役職をもっていたわけではありません。つまり当時は全ての人々がその社会の中で、いくつかの役割を少しずつ共有しながら、共存していました。

それから数世紀が過ぎ、まず聖職者と王様がその複合的な食料供給の仕組みから独立し、間接的に影響を及ぼす存在となります。その後農夫、水車大工、靴屋、鍛冶屋といった専門の職人たちが次々とその複合体から離れ、それぞれ独立した職業として自立するようになります。パン職人はとうとう最後まで残りますが、ルネッサンス時代になると、ようやく最後に粉屋から独立します。パン屋はひき割りを粉屋から購入し、自分で篩ってパンを焼くようになります。

ヨースト・アンマン(1539年6月13日-1591年3月17日)は、スイス生まれの画家。彼が4年間に描いた絵は、馬車一杯分という逸話も残っています。イラストは、アンマンによる「粉屋とパン屋」の一場面です(1568)。西ヨーロッパではそれまでは両者一緒であったものが、この頃までには粉屋とパン屋は独立した職業となりました。つまりこの時代になると挽き割りを篩う作業はパン屋の仕事となっていましたが、このイラストからはどちらが篩い作業を担当しているかは、判断できません。

その後水車小屋の建築、特に水車や石臼の組み立ては水車大工による専門の仕事となり、石臼の目立ては、経験と技術を持ち合わせた旅職人が請け負うようになりました。水車小屋が完成すると、粉屋は製粉するだけでなく、自ら水車小屋の修理も受け持つ技術者となりましたが、技術は未熟なままです。この状態はその後も続き、19世紀になって初めて製粉専門の修理工が登場すると、粉屋はそこで初めて小麦粉製造専門の職人となります。

前後しますが、各職業が粉屋から独立するにつれ、粉屋自体は一般大衆からはよく理解できない不可解な職業として映るようになります。農夫は小麦を粉屋に持ち込み、その代償として一定量の小麦粉を受け取りますが、果たしてその小麦粉が適量であるかどうかの判断材料がないのです。よって粉屋は疑惑の目で見られても仕方なく、19世紀頃まではヨーロッパ全体には、粉屋に対する不信感が渦巻いていたようです。しかし19世紀になると全く新しいタイプの粉屋が登場します。彼等は疑い深い隣人相手に商売していた従来の小さな粉屋とは異なり、技術力に優れ、また誠実で誰にも敬われる若きエリコット、ウォッシュバーン、ピルズベリーといった進歩的かつ大規模製粉を志す製粉家です。またそれと同時に、全米の何千という小さな粉屋は徐々に廃業し、その絵本に登場するような水車小屋は、廃墟と化していきました。