かなりいい線までいっていたアワーグラスミルですが、いくつか欠点がありました。一つは粉砕面の調整が雑で不正確だったため、粉の目が粗くなったり細かく挽き込まれすぎたりして、あんまり品質の良い小麦粉はできなかったようです。だからギリシャやローマではアワーグラスミルが粗粉砕用、レバーミルが仕上げ用と役割分担していたとの記録もあります。またそれ以上に困った問題は、アワーグラスミルは本体が大きすぎるため、家庭用には不適で、専ら産業用もしくは公共用という位置づけだったようです。
そこで図体のでかいアワーグラスミルは止め、手頃なサイズの円形の石を2つ重ね合わせ、両者の粉砕面を中心に向け、やや円錐状にし、中心にピボット(軸受け)をとりつけ、滑る工夫をしました。そして上石のホッパーとリンズはそのまま残し、クランクハンドルを取り付けることで、女性でも無理なく操作できるようにしました。後にカーン(quern)と呼ばれるようになったこの「手挽き臼」には多くの利点があったので、一部の孤立した地域や、遅れた地域を除き、それまでの家庭用粉砕器の定番であったサドルストーンに取って代わりました。ここまできてようやく私たちがイメージする石臼に近くなってきたわけです。
つまりこれまでサドルストーンに始まり、スラブミル、プッシュミル、レバーミル、そしてアワーグラスミルは全て過渡期の形態であって、カーン出現後は一般的には使用されることはなくなりました。カーンはそれまでに考案されたどの粉砕器よりも効率的で、家庭用の手頃なサイズに収まったので、各家庭に支持され続け、現在でも一部の孤立した地域では現役ばりばりで頑張っているのです。そしてそれはその後に水車や風車で使用される円形のミルストーンの原型として、歴史的に見ても意義があります。
ところでカーンは紀元前5世紀頃までには地中海全域にほぼ行き渡り、少し遅れてガリアとスペインのセルティック族にも普及したそうです。プライニーによるとカーンは前ローマ時代のエトルリア連邦のメンバーであったヴォルシニア人によって発明されたことになっていますが、それは今のところ定かではありません。
話は飛びますが、科学技術の分野においては民生技術より軍事技術の方が、早く開発されることはしばしば目にします。現在はどうか知りませんが、昔は民生分野の方が切迫感が少なく、逆に軍事用は一国の存亡がかかっていたのです。仕事も勉強もお尻に火がつかないとやらないのと同じです。そして古代においても行軍中に軍隊や海上の船隊に食料を供給するのは喫緊の要事でした。しかし昔の小麦粉は精選も雑で、表皮も一緒に挽き込んでしまうので、非常に腐りやすく悩みの種でした。よって小麦粉を袋に詰めて持ち歩くわけにはいかず、小麦は常に粒の状態で携帯し、毎日必要量だけを製粉する必要がありました。すると、アワーグラスミルは大きすぎて行軍用には適さず、より軽く効率的な製粉機の登場が急がれたのです。
クセノフォンの著書「キュロスの教育」の中には、行軍用の携帯製粉機についての記述がありますが、それによると紀元前2世紀までには、ローマ軍は5~10人の班に1台の割合でカーンを装備していたそうです。よって行軍の先々でカーンの存在が人目に触れ、それによって普及したことは想像に難くありません。そして近世になると行軍中は、馬の畜力を利用し、移動製粉機で小麦粉を挽くようになりました(イラスト参照)。